Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

国歌斉唱と陳腐化

 かつてサッカーの国際試合で、わざわざ歌手を呼んで国歌斉唱を行うようなケースはそれほど多くなかったように思う。もちろん、きちんとデータを取ったものではなくあくまで私の感覚的なものではあるが、近頃は猫も杓子も誰かを呼んでの国家斉唱という具合である。
 当然、いつでも歌唱力のある人が呼ばれるとは限らない。むしろ客寄せ的にネームバリューのみの人が呼ばれて醜態をさらすことも少なくない。比較する意味で、かつて甲子園で素晴らしい歌唱力を見せた女子高生の動画が張られていたりする(http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=_ORh8TKxsMU)。実際、独唱に耐ええない歌唱力の人は少なからず存在する。こうした人たちが呼ばれてしまうのは、安易な国歌斉唱が各所で行われているからとも言えるだろう。歌唱力の高い歌手であっても、仮に毎度毎度国歌斉唱で呼び出されるのは願い下げであろうし。

 同じよう話としては野球の始球式がある。これは昔からいろいろな人が投げることで話題を演出してきたものであって、国歌斉唱ほど登場人物の差は問題とはならない。ゲームを盛り上げる演出の一環としてのものであって目くじらを立てるほどもないと思うが、こちらはその陳腐化がはなはだしいようにも思う。一部のアイドルが登場する時にはファンが一喜一憂するかもしれないが、概ね誰も興味を持たないレベルにまで価値は低下した。
 昔と比べて誰も興味を持たないという点ではそれほど変わらないのかもしれないが、始球式を与えられる栄誉という価値が激減しているようにも思う。これも国歌斉唱と同じようにその乱発が行為の価値を下げている。

 こうした行為が常態化するのは、試合の中身よりも試合の格を向上させようと主催者が図るからに他ならない。一度や二度はそれで上手くいくこともあるかもしれないが、繰り返されればされるほどに意味は消失していき、結果としてイベントの陳腐化が促進する。
 本当に盛り上げたいのであれば、その試合を見に来たファンたちと一体化できるような演出がある方がまだマシではないかと思いさえする。例えば、事前のファンイベントを行いその勝者が始球式に登場するなど。国家斉唱なども地元の音楽を学ぶ高校生や小学生などを呼んで歌ってもらった方が、現状での酷い事例と比べればいくらかマシではないかと思うのだ。

 それでも檀蜜が服を脱いで始球式を行えばスポーツ新聞の紙面くらいは飾れるし、アイドルがノーバウンドでキャッチャーまで届かせれば、「ノーバン始球式」」と取り違えを期待したニュースを打つこともできる。だとすれば、最近の国歌斉唱や始球式などのプレイベントはそれを見る人たちの意識を盛り上げたり共感や一体感を高めるよりは、せいぜいゴシップ紙の話題提供にいそしんでいると言われても仕方がないように思える。

 とりあえずは、国歌斉唱にはそれにふさわしい歌唱力のある人を選んでほしいし、それが難しいならばむしろやめた方が良くないか。ふとそんなことを感じてしまう今日この頃である。