Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

自由について

 「自由」の反対を「不自由」と言うのは間違いではないものの、あまりに捻りが少なく小学生の意見のようにも見えてしまう。と言うこともあって、もう少し真面目に考えてみたい。
 歴史上の自由の反対語としては圧政や抑圧がある。こうした行為が結局のところ生きていく上での不自由さをもたらし、状況がひどくなれば暴動や反乱が生じさせる。圧政とは支配する側と支配される側の関係が根底にあることを意味し、この構図そのものを問題視する時に自由と平等という概念が現状を変えるキーワードとなる。そこには、地位への不平等まで含まれた対等性が重要視される。

 現代にも通じる部分があると思うが、階級社会において自由を謳歌できるのは一定以上の地位と権利を有するからこそであるという意見には一面の真実がある。ただ、平等は状況として自由を手に入れるための一つの手段であり、対等は自由を手に入れることができる能力を示しているように思う。すなわち不平等を解消して掴み取る自由は、そのための能力を手に入れそれを維持するための努力を続けることが求められる。よく見かける責任論とあまり変わらないかもしれないが、自由には相応の責任を伴うということが言えるだろう。現在でも生まれの違いは存在するが、個人の能力によりそれを挽回可能であるという意味においては階級による不平等は、少なくとも今の日本ではかなり解消されている。
 また、厳格な階級が生まれて根付いていた中世でも階級の差があったからと言って常に自由を求める争いがあった訳ではない。仮に厳しい抑圧だったとしても、運命として受け入れらたケースは数々あろう。それが当たり前だと言うようなつもりはないが、革命や暴動は多くの場合食糧事情の悪化(餓死などの発生)を理由とすることが多い。逆に言えば、多少の差別や地位の違いなどは社会において比較的受け入れられやすい。

 現代日本社会でも細部において多少の不平等はあるかも知れないものの、中世などと比べれば非常に平等であり圧政というような形での抑圧はない。また、社会に歪みにより一部で餓死する人がいない訳ではないが、だからと言ってそれが頻発するような状況にもない。中国などでは反政府運動の厳格な禁止が示すような実質的な抑圧が行われているが、今の日本では国内で反日運動が堂々と展開できるほどに開放的である。
 とすれば私達はかなり自由なはずではあるが、それでも自由がないと言う意見がよく聞こえてくる。その意味としては、圧政などではなく社会を安定的に機能させる規則や慣習等が私達を縛り付けている。特に、最低限の義務である勤労や納税または育児などを自らの行動を制限するものとして捉えているのかも知れない。
 これは、先ほどまで示してきた外的な抑圧ではなく自分自身との問題から見出される内的な抑圧と考えることもできる。状況を変えることが不可能なわけではないが、変えるためには何かを犠牲にしなければならない。それは幸せな家庭であったり、あるいは豊かな生活であったり、権威ある地位であったりもする。そのいずれもが一旦望んで手に入れたものであるが、それを選択する自由を行使したことで別の自由を失ってしまった。

 すなわち、全ての自由を失った訳ではなく特定の自由を失った状況とも言える。私達が欲する自由は、その時々に応じて変わる。しかし、社会が私達に許容する自由は容易に変化しない。自由が欲しいというのは、ある面でこの両者のずれに対する葛藤の表れである。
 これを逆の面で考えれば、中国や韓国における「反日」の自由がある。大きな不自由というか不平不満を逸らすために、反日(あるいは愛国無罪)という部分的・限定的な自由が与えられる。理性的に考えれば「そんなもので誤魔化されるなんて」と思わなくはないが、現実には非常に上手く機能している。もっとも、これをいつまでも続けられるはずもない。
 この誤魔化しの限定自由を与え続けるためには、それを正当化する虚構のストーリーが必要となる。

 尾崎豊が望んだ自由が一体何なのかを本当の意味で私は知ることができやしないが、自由という言葉の万能的な意味合いに対して、現実に取り上げられる自由は非常に限定的でかつ不自由なものである。なぜなら、私達はある程度の自由を既に手に入れているのだから。