Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

信用のカタチ

 日本社会においても、徐々に簡単にはお互いを信用できないといった風潮が広がり始めている。それを自己責任の本来の形と取るか共同体社会の瓦解と見るかは様々であろうが、どちらにしても日本式の信用社会は静かに変質しつつある。
 信用を積み重ねるのには多大な時間手と間がかかるが失うのは一瞬であることを、いくつかの不祥事を犯した企業の行く末から慮ることができるが、だからと言って日本人という国民性が急に変わってしまうということも考えにくい。この変容は社会の変化を受けてのものと考えるべきなのは当然のことなのだろうが、それと日本人という感覚との間に生じる落としどころとしての信用社会がどのようになっていくのか、先を見定めることは容易ではない。ただ、消極的かつ結果的に生まれてしまう信用の変節に任せるのではなく、主体的に目指すべき信用の形を考え直すことは非常に重要ではないかと思う。

 そもそも信用社会は世界中での共通のキーワードである。もちろん、信用の形態は文化により大きく異なるが、資本主義社会においては一定の収束を見ている。このコアとなる部分に加えて、それぞれの文化や慣習に応じたアレンジがなされているのが世界の信用の在り様であろう。
 ただ、アメリカやイギリス主導の金融的な信用のみが突出する現象が、世界の金融危機を膨らませて世界経済を脆弱にしているという面を私たちは何度も目にした。手っ取り早く仮想の経済(信用取引)を成長させそこから成果を得るために、実態の産業の発達に何倍ものレバレッジをかける手法が普通に用いられてきて、さらにそれが大きく膨張した。この状況を下支えするのは世界中にばらまかれているマネーである。このばらまかれたマネーは、本来低下した経済の働きをテコ入れするためのカンフル剤として用いられてきたものであったが、いつしか膨らんでしまった信用経済を維持するための生命維持装置となってしまっている。
 それ故にだろうか、FRBが金融緩和の出口戦略について言及しただけで世界の金融市場は大きく乱れてしまう。だが逆には、一時期の日銀金融緩和などでも見られたようにいくら緩和しても当初の目的である経済の下支えにはインパクトある効果が出ない。経済のあるべき形は、一体どこで歪んでしまったのか?

 上記の話はあくまで経済活動のしかも金融部分を取り上げた内容だが、世界は金融のみで回っているわけではない。ただ、それでも金融という怪物が世界のありようを必要以上に改変してしまっていると感じる人は少なくないだろう。
 この世界で用いられているのも信用という言葉である。しかも、どちらかと言えば見事なまでの契約による信用が中心となる。喰うか食われるかという弱肉強食の世界を、正当な経済活動という表面的な白粉を塗すことであたかも正義の行使のように取り繕っている。
 私は金融そのものを否定しているわけではない。ただ、その肥大しすぎた部分は信用に名を借りた別の存在になってしまっているのではないかと言うことである。そして、金融における信用は相互的であるように見えて一方向的なように感じている。それは日本人が考える信用とは少し異なるのではないか。

 本来、信用は双方向的であることが望まれるが実社会では必ずしも成立するとは限らない。むしろ断片化された現代社会においては一方向的な信用が横行している。現実には横行しているというよりは、社会ではなく個人がそれを望んでいる節がある。信用は信じることであるが、同時に信じるに値すると評価する行為でもある。これが双方向になれば、自分は評価する立場でありながら同時に評価される立場ともなる。信用が一方向的になりやすいのは、この評価される対象となることを忌避しながら自らが評価する(信用する)立場のみを追い求める心理が強いからではないだろうか。
 これは別の面でいえば信用を巡る二つのパターンからも垣間見える。行為を信用するかあるいは人物を信用するかである。行為をもって人物を信用するというみなし行動が頻繁に行われている。しかし、それすらも確認できないがゆえに制度でもって行為を縛り、それを擬制する。
 理想形は人物そのものを信用するに至りたいが、物理的な限界により不可能な部分を制度により補おうというものだ。契約もこの一種だし、あるいは各種の資格制度も能力的な面を含めて信用を担保する。人物的(法人であっても法人格としての倫理性)な面を排除すればするほど無機質な信用形成に至り、それを重視するほどに有機的な(濃い)信用形成が行われる。人物をもっての信用は一方向的にはなりにくいが、それは他者を信用する(同時に評価する)と同じだけ自分も評価されるという煩わしさを伴うのである。

 契約は社会活動における悪意を排除する目的で作られたが、それと同時に煩わしさを回避するという効用もある。現在では、むしろ後者に重きが置かれている。それ故に、悪意を排除するシステムがいつの間にか善意を排除する仕組みにすり替わる可能性がある。
 信用を担保する契約が、むしろそれを順守しようとしたものを不利な立場に追い込むケースだ。そもそも信用の最初は情に訴える信用であった。ところが社会の発展や複雑化に伴い、社会に訴えかける信用となり、法に問いかける信用へと変質した。日本における信用問題も世界との歩みは異なるものの同じ動きにある。
 ただ、原点に立ち戻るならば法は情を補完するものである。もちろん、感情を中心とした信用はその棄損の問題を抱えている(中国や韓国の日本毀損がそれに当たる)。これは、人物中心の信用をその人物以外の人物が語ることで貶めているのだが、実質的には情を用いながらも噂という曖昧な判断基準を広めているものである。

 さて、世界は生活も文化も慣習も異なるため異なる民族(文化)間では法や契約による外的な信用補完が重要である。しかし、日本国内においては必ずしもそれが必須ではない。松下幸之助氏の「恩顧」「保信」という言葉があるが、日本国内における信用については世界に合わせるのではなく日本人の理解できるそれが再び広がってほしいものだ。