Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

自分の赦し方・誤魔化し方

 人生を自ら定める唯一の目的に向かって邁進できる人などは現実にはまず存在し得ない。多くの場合、人は生きる目的を自分に言い聞かせ、あるいは目的を問うことを如何に忘れるかに粉骨する。すなわち、自らが抱く目的を心底から信じ切っている訳ではない。そもそもこの世界において絶対的な正解を探すことなどできるはずもなく、私達は試行錯誤の上で「それらしい」ものを選択しているに過ぎない。だから、私達は常に自分の判断は間違っているのではないかと畏れている。
 ではなぜ畏れるかと考えてみれば、何のことはない自らの足跡を無駄にしたくないということが最も強く左右することが多い。人々は基本的に自分の行動における無駄は嫌いなのだ。トライアンドエラーが当たり前という現実と、少しでも無駄を省きたいという本能の乖離は私達の心にストレスを与え、内在する矛盾を解決するために私達は自己弁護という誤魔化しを各所で行う。

 もちろん、世の中にはこうした誤魔化しが必要のない人もいくらかは存在するだろう。そもそも誤魔化しとは自分自身を勘違いさせようと自らにかけるトラップであり、それを意識すればするほどに罪悪感が募ることとなる。宗教はその罪悪感という重荷の一部を他者(多くの場合は神)に引き受けてもらうために成立したといっても良い。言い方は悪いが、ある側面でいえば責任転嫁と言えなくもない。
 もっとも、人間はそもそも矛盾の塊のような存在であり、希望と現実の間を常に揺れ動いているのだから、その葛藤に整合性を図るためにありとあらゆる手段を取る。もちろん、一般的に建設的と取れるような整合の図り方もあるだろうし、他者の目から見ればどう考えても非生産的な整合の図り方も存在する。苦難を自らに課せられた試練と考えるのは宗教にも多く見られる考え方ではあるが、それが上手く消化されれば社会においてはプラスの面も出てくるであろう。これは軋轢や葛藤の位置を自らの心理内ではなく、外的なノルマや仕事の達成に置き換えることを行っている。考え方からすれば、葛藤を強引に解消するのか、あるいは別の形で昇華しようとしているとも言える。
 一方で、非現実に逃避するのも自分自身と言う狭い枠の中では整合性が図られないわけではない。もちろん、軋轢や葛藤の位置を自らの心理外にずらすという意味では先ほどのケースと変わらないが、それを解消しようとしない(無視する)ことで先延ばししているとも言えるだろう。

 この両者に対する社会的な評価は大きく異なるのだろうが、どちらにしても自ら内的に抱える矛盾を如何に解消しようとするかと言う根源的な部分でいえば同質なのではないかと思う。ここまで書いてきたように自分を赦すというのには二つの面があり、一つには表面的な自分自身に対する誤魔化しがあり、もう一つには良いことも悪いことも全て許諾してしまう赦免を与えることがある。
 この両者ともに、私たちが自らの力により解決できない矛盾や葛藤から来る不協和性を如何に緩和するかと言う問題である。これについては、自分自身だけではなく他者に対する赦しも同様にふるまわれる。もちろん自分に優しく他人に厳しくはデフォルトかもしれないが、年齢を経るほどに一般的には広い範囲の赦しを自分にも他者にも与えるようになりがちだ。人によって差異はあるだろうが、おそらくは肉体的な老化が同時に精神的なポテンシャルも押し下げるからではないかと想像している。

 さて誤魔化しであっても赦しであっても、自らにとって最も良い選択肢を選ぶことが重要だとの視点に立てば、自分の精神が耐えられるギリギリのレベルまでチャレンジをし、その消耗具合に応じて軽い誤魔化しで済ますのか本格的な赦免を与えるのかを選択するのが理想的だと言える。運動におけるトレーニングと実質的には何も変わらない。精神をバランスよく鍛え上げるためには、適度な負荷と適度な休息が必要なのだと思う。
 無論それができるのは自分を客観視できてこそのことであって、客観視が難しいからこそ他者からの助言が重要となる。その助言は自分の認識とは異なるだろうし、場合によれば悪意が含まれることすらあるだろう。結果的には、自分の精神を上手くメンテナンスする上でも信頼のできる友人や家族の存在は重要である。

 人生は山あり谷あり。その中では厳しく接する時も、安らぎを追い求める時も必要だと思う。精神も肉体と同じでオーバーワークを続ければ壊れてしまう。赦しや誤魔化しも、そのメンテナンスの一環として組み込むことができるのであれば悪いものではない。