Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

偽善の境界線

 博愛は一義的には素晴らしい精神であると私も思うが、同時に一歩間違えば偽善と取れられかねない微妙な立場に存在してもいる。博愛と偽善は結果に個人的な利益(お金とは限らない)を求めるかどうかで区別されると思うが、その違いはなかなかわかりづらい。場合により場最後までわからないこともあるだろう。あるいは、全を施すことが目的ではなく手段である場合という見方もできる。このあたりの分類については、私自身まだしっくりとくるものをつかめてはいない。
 ちなみに、本人が博愛のつもりで施した行為が偽善とののしられることも数多く存在する。博愛であるか偽善であるかは受け手の感覚による部分が少なからず存在し、判断する側の私たちは行う人の過去から推測するしかないわけだ。

 さて、博愛と偽善を二項対立で表記してしまえばそれは善悪といった感じの対立構造を想像してしまう。ただ、私はこの両者は必ずしも対立関係ではないのではないかと考えている。どちらも善行を前面に押し出した行為であることに違いはない。仮にその結果として社会的な賞賛(あるいは何らかの利益)を受けるとして、その恣意性がどう評価されるかという周囲からの見られ方に違いがある。
 むろん、我欲丸出しの偽善的行為なら歴然としているのであろうが、善意と我欲の境界があいまいなケースが大部分であろう。いや、完全なる博愛であすらそれを行いたいという自己目的に殉じているということでいえば、我欲と無縁とは言い切れないのである。

 だからと言って博愛の価値がいかほども減じるものではないことは言うまでもない。問題は、偽善と言われるものの評価がどのようなものとなるべきかである。先ほども書いたように見え見えの露骨なそれを博愛と同列に並べるのはさすがにどうかと思うのだが、大部分の偽善的にも見える行為の全てが問題であると片づけることにも疑問を感じてしまう。
 多感な時期であるならともかくとして、偽善であっても社会にとってメリットのある行為はそうだと受け止めても良いのではないかと思う。あるいは個人レベルで偽善と感じられないのであれば、それも駄目のレッテルを張れるものでもないだろう。
 だとすれば、この偽善の内に存在する微妙な境界線は個人の受けるメリットと社会が受けるメリットのどちらが大きいかで判断しても良いかもしれない。この際には行為者の恣意性は考慮しない。意図的か意図的でないかに関わらず、表だって社会貢献のためとして行っているものであるならば、その価値は一定評価されるべきものだと思う。

 ところが現実には偽善的であるという認識は、多くの場合ネガティブな反応を引き出す。それは偽善の範疇が幅広いことに対する警戒心が引き出す反応ではないだろうか。完全無欠の博愛ならば安心して委ねられる。ところが、少しでも偽善のにおいを嗅ぎ取ってしまうと、その偽善の度合いがどれだけ大きいのかを心配しなければならなくなる。それは、社会に対してというよりも自分がどれだけダメージを受けるかという指標に置き換えてしまう。あるいは自らに資するものだと思えなければ、容易に拒絶の対象となってしまう。博愛が求められるのは、多くの場合には社会弱者に対してである。その社会弱者に不信感を抱かせることに対して、寛容とはなりにくい。

 ところが、こうした事業を企業として運営した場合にはどうだろうか。一部の不届きな事業者やそこで働く職員の問題が報じられてはいるが、福祉事業所などは社会に必要な存在と考えられている。ただし、企業であるがゆえに利益が第一目標でもある。そもそも企業の第一目標は、近年のグローバル企業はいざ知らず松下幸之助氏が言ったように社会とともに成長することであるべきだと私は思う。
 利益を得ながらも社会に貢献するその姿は、偽善と言われたとしても社会に貢献する姿とどれほど異なるのだろうか。確かに偽善は博愛を装い社会に入り込む。企業のように最初から利益をうたっていないかもしれない。これを「悪」と言ってしまうのもどうかとは思うが。。。あえてここでは「悪」と呼ぶとしよう。
 だとすれば、私は偽善も社会における必要悪の一つではないかと思う。別に詐欺を奨励しているわけではない。明らかな詐欺的行為を私が偽善には定義したくない。それよりも、現状において博愛と偽善の間に引かれている境界が、本来は偽善と詐欺の間に引かれるべきではないかと思うのだ。