Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

日本は既に変わったことを認識すべき

 私は比較的保守的な思想だと自認している。だから、私とは意見を異にする人も当然いるだろうが、別の主義主張を持つ人を容認しないつもりは全くない。認識の違いは認めたうえで、建設的な議論を行うことは望むところである。ただ、議論は感情論ではなく事実認定を積み重ねた結果の上で行うべきだと考えるのと、個別の事象に拘るのではなく全体的俯瞰的な視点が必要であると思うこと、加えてもう一つは過去よりも現在や未来の方が重要だという重みづけをしている。
 大部分の日本人は、第二次世界大戦の敗戦については日本側の戦略ミスだとして、同じ轍を踏んではならないと考えているだろう。それは、善悪の認識も含めて戦争を仕掛けることの愚を私たちに知らしめている。むろん、様々な意見があり戦争突入が当時の情勢からやむを得なかったという意見を持つ人もいるが、だからといって今度はうまく戦争をやろうだなんて考えている人はほとんどいまい。

 韓国や中国が日本が軍国化の道を歩んでいると叫ぶのは、単純に国際政治における戦略的なものであるが、それをいかにも世界的な主張であるかのごとく日本で報道したり、あるいは日本のメディアそのものが日本の軍国化を真剣に心配するような記事を書くのは、そこにどのような目的があるのかを疑ってしまう。
 ごく一般的に感覚では、韓国や北朝鮮あるいは中国やロシアが日本にちょっかいをかけなければ、日本側から外に打って出るなどということを真面目に想像する日本人はいくらもいまい。私自身、本当に日本政府が先に武力的な戦争を打って出るような動きになれば当然に反対する(もちろんその状況をしっかりと考えた上でのことでもある)。なぜなら、日本の繁栄は平和であることが大前提だと思うからである。

 しかし、武力的な戦争は影をひそめていたとしても、経済やその他の分野における戦争のような争いは別に世界から消え去ったわけではない。武力戦争はその暴力的な性質から、倫理的に許容されないという認識が世界的に広がっているのにすぎず、今はそれとは異なるところでしのぎを削っている。
 経済戦争も情報戦争も、メディアが戦争と書き立てることはほとんどない。TPPにしても、協力という偽善的な面の裏には如何に自国に有利な状況を作り出すかという争いが行われている。仮にルールに基づく争いを競争だと言うとすれば、ルールそのものを作る争いはなんと呼べばいいのだろう。あるいは、ルールを捻じ曲げて吹っかけてくる相手との争いはなんと呼ぶべきなのだろうか。

 少なくともこれらを競争だとは呼べないと思う。武力を用いない戦争と呼ぶのはセンセーショナルすぎると私も思うが、そもそも戦争とはどこからが戦争でどこからが違うかは不明確だ。昔のように宣戦布告をするのはある意味わかりやすくて良いのだが、ゲリラ戦を含めた宣戦布告のない戦いは戦争ではないのだろうか。テロとの戦いは戦争ではないのだろうか。
 仮に戦争と呼ぶのが不適当なら抗争でもかまわない。世界では様々な分野であるいは場面で抗争や闘争が行われている。それがないという人はほとんどいないと思うが、それを議論で本当になくせると思うのはあまりにも世間知らずだし、本当にできると思うのであれば現在進行形の中国のチベットにおける人権弾圧を何とかすることをまず実行に移すべきであろう。

 醜悪な事実だとは私も思うが、これが現実である。私たちは理想を目指しているものの、現実に生きている。理想を追求するがあまりに現実に目をつぶってはいけない。醜悪な状況を叩きやすいところから叩くのは、状況を改善するうえでの最善手ではない。
 イデオロギーとは難しいもので、それは確かに一面の真実ではあるがすべてに通ずる万能薬ではない。近年、日本は明らかに変わった。それを軍国化や戦争に向かっていると印象論で叫ぶ人は数多くいるかもしれないが、それに賛同する人はもうそれほど増えることはない。それは、彼らの主張が現実と大きくかい離しているからだ。
 叩きやすい日本のみを叩く左派のダブルスタンダードはもう多くの人に知れ渡っている。世界は日本以上に醜悪だし、その世界の中で日本が生き延びていくためには、その醜悪さをなくすことではなくその醜悪さと対峙できる強さを身に付けることが必要である。

 お人よしの日本人も、日本が譲歩しても他国は合わせてくれないことを既に嫌というほど学習した。特に、韓国・北朝鮮・中国の三カ国はその傾向が顕著なことも知識として得た。むろん、個人レベルでは良い人もいくらでもいるし友好を結べることも知っている。しかし、個人レベルの交流と国家レベルの争いは別物である。
 そして、過去の日本を非難することで自らの地位を高めようとする日本の勢力についても話は同じである。日本が徐々に変わり始めたことに苛立つ彼らが、その攻勢を強めれば強めるほどに反発は強まるだろう。それは右傾化という動きで呼ばれるかもしれないが、私は右傾化ではないと思う。単なる反発に過ぎない。そしてこの反発は、活動が活発化するほどに強くなっていく。

 歴史に学ぶことは確かに大切である。しかし、一部の歴史に拘ることが重要なのではない。歴史から重要なエッセンスを抽出して未来に役立てることが必要なのだ。私たちは、武力による戦争が結果的に私たちの利益にはならないであろうことを理解した。そして、最近では一方的な譲歩も同じように利益にならないことを学習した。
 今日本が中国や韓国に行われていることは、過去の失敗を持ち出しなされているクラスにおけるいじめに等しい。その上で彼らは個人的ないじめを集団に広げようと画策している。こうした状況下で私たちはいじめられている子供になんと声をかけるだろうか。自らの過去の失敗を反省していじめる人たちに従いなさいというアドバイスを送るだろうか。私なら自分の身は律しながらも、不当だと思うことには正々堂々と抵抗すべきだとアドバイスすると思う。

 果たして日本のマスコミたちはどのようなアドバイスを送っているように見えるのだろう。