Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

スルー力

 韓国が最も力を発揮するのが日本相手の時であるということは、各種スポーツを見ているとよくわかる。私などは特段精神論者ではないので、スキルが異なれば気合いのみではその差を容易に埋めきれないだろうと信じている。ただ、現実には日韓戦ともなれば精神力で埋められてしまう状況を、奇妙な感覚を持って呆然と眺めていることも多い。

 さて、今回は日韓関係をことさら取り上げようというものではないが、これ以外にも社会においては少なからぬ軋轢があり私たちはその対応に苦悩している。多感な人なら、苦悩するくらいなら人との関わりそのものを断ちたいと考え行動するケースもあるだろう。所謂引き籠りと呼ばれる社会現象も、基本的には個人的・感覚的な損得勘定により分類できなくはない。あくまで主観的な判断ではあるが、引き籠る方がむしろ自分にとって有利だと考えた結果である。無論、それは引き籠れる状況があるからこそ成立する儚い形態だし、そもそも主観的に下した判断そのものが正しいのかどうかも釈然とするものではない。

 それでも、仮に人から受けた指摘がどんなに客観的で理性的であったとしても、自らの感情が受け入れられない限りにおいて私たちはそこからストレスを受ける。ストレス耐性のある人もまたいろいろと存在するが、その耐性には二つの傾向がある。一つには受けたストレスを乗り越える形での耐性。課題を克服する、あるいは成功への努力を続ける。そしてもう一つは、ストレスを流してしまう方法である。これをスルー力(りょく)と呼ぶことにしよう。鈍感さ(鈍感力)とは少し違う。気付かないフリをするのではなく知っていて適当に受け流すことである。

 この両者にはそれぞれのメリットとデメリットが存在する。前者はポジティブで前向きではあるが、それが理由で無用の仕事をしつけられるなど雑事が増加してしまうというマイナス面も存在する。社会において、多くの場合仕事はできる人に集中する傾向が高い。この「できる」というのは成果を上げるということ共に、誠実にに取り組んでいるという面も大きく影響する。後者は、それが過ぎると無能とみられたり逃げ腰だと後ろ指を指されるかもしれない。ただ、適度であれば自分がすべき仕事をうまくコントロールしてるとも取れる。スルーとはいっても無視するのではなく、できないものを角が立たないように他に振ることでもある。

 前者の場合、誠実と言えば聞こえはよいが言い方を変えればポジティブゆえに断らず文句を言わないということでもあり、それが仕事を集めることになる。意図をもって接近しようとする人にうまく利用されてしまう可能性もあるし、あるいは自らの処理能力を超える仕事を引き受けてしまうこともあるだろう。
 しかし、人は誠実でかつ前向きであるべきだというのが社会の声の趨勢である。もっとも、こうした掛け声は発する人が自らではなく自分以外の誰かに問いかける言葉であって、考えてみれば非常に無責任なものだ。理想形としては人はそれぞれ誠実でかつ前向きに生きることは重要なのだが、これが真の意味で成立するのは大部分の人が誠実でかつ前向きに取り組む場合である。皆がそれを実行すれば真に素晴らしい社会が成立すると私も思うのだが、残念ながら実行する人はごく一部に限られる。結果として、こうした人たちが割を食うことになりがちだ。

 ただ、問題が今一つ深刻化しないのはこの割を食う人たちが誠実でかつ前向きであるためでもある。本当に馬鹿げたことではあるが、真面目に社会の理想を実現すべき努力する人たちがその性格のために苦労し、つらい状況に置かれているというわけだ。もちろん、その労苦に応じた対価や褒章が準備されていればそれも良いかもしれない。実際、努力を続けた一部の人は栄誉を受ける。しかし、真面目で前向きだからと言ってすべての人がその地位にたどり着く訳ではない。
 むしろ、ほどほどにうまく立ち回ったものが成果を得ることも決して少なくはないのである。

 じゃあ、ここで何を言いたいか。そう、誠実で前向きなことが悪いのではない。それは私も美徳だと思うし、決して非難されることではない。突き詰めることができるのであれば非常に素晴らしい。
 ただ、一本気はやはりちょっとしんどいと感じる時があるだろうし、うまくスルーする術も覚えておいた方が良いのではないかと思うのだ。それは無言で周囲に遠慮させる力でも良いし、うまくとぼけることでも良い。あるいはうまく他の人に流す処世術でも良いし、必要な自己主張を強くすることでも良い。
 物事は一本調子であるよりは、少しくらいのらりくらりでもよいのではないかと思ったりもするのである。