Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

体罰とセクハラ

 柔道界の体罰問題が出て個人的には少々焦点がぼけ始めたと思わなくもないのだが、報道では桜ノ宮高校の大半の運動部では体罰が確認されたとするものも出ていた。
大阪・高2自殺:桜宮高、大半の運動部で体罰 70人「受けた」回答−−外部調査(http://mainichi.jp/feature/news/20130202ddm041040074000c.html
 個人的にはまあそんなものかなとも思うし、その中で生徒側からも体罰肯定論が少なからず出ているのも、なんとなく私自身の感覚とも合っている。もっとも、別に体罰が素晴らしいなどと言うつもりは更々無く、それを用いること無しに生徒達の技術レベルを向上させると共に気持ちを一つにつなぎ止められることが理想であることは言うまでもない。あくまで繰り返しの体罰に頼る指導者は、指導者の器が低いという認識ではある。ただし、過去のエントリでも書いているがそれでも効果ある懲罰行為は決して不必要とは思わない。また、手を出さなくても言葉や態度(行動など)による心理的な暴力は存在するし、場合によればそちらの方がずっと怖いと思う。今回の問題は、体罰=暴力という非常に単純な図式に矮小化されて取り上げられているようにも思うが、人によっては言葉で諭せば理解できるものも数多くおり、一方で力で屈服させないと理解できない人間も幾ばくか存在するのも間違いない。
 様々な対応の生徒に対応するには結局のところそれぞれ異なる方法論を取らざるを得ないのだが、それを実践できるほどの人生経験や社会経験を積んだ教師がそこいらにいるとはとても思えず、制度により歯止めをかけざるを得ないのが現状であろう。

 私は暴力により一体感が醸し出されるとはあまり考えたくはないが、人間の心理は不可思議なものでストックホルム症候群http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%A0%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4)と言った通常にはあり得ない心理状態が得てして起こるものでもある。どんな理由であれ、一度好意的な存在と自分の意識の中で組み込まれたものは容易に変えることはできない。なぜなら、自分が肯定したものを否定されるのは自己否定にも繋がりかねないからである。現在、体罰をした教員擁護の姿勢を見せる卒業生達の心理状況はそんなものではないかと思うのだ。
 こうしたまやかしのような肯定劇が過度に社会に受け入れられることには同意しないが、それでもそれが本人や周囲にとって悪い影響を与えるものでなければある程度許容されよう。そして、その許容のレベル設定が難しいことが体罰容認論を存在させている訳でもある。

 このような体罰を巡る社会の声を聞いていて思うのは、セクハラと体罰の類似性である。どちらも行為として卑劣なことであるのは言うまでもないが、その事実が成立するのは被害を受けたもののとらえ方により大きく変わることがある。体罰の場合でも、それを受けている側が愛の鞭だと認識している限りにおいて、体罰として問題になることはない。それは愛情を感じてれば、セクハラには該当しないのと似ている。
 逆に言えば、好意的な感情を抱いているかどうかで反応が変わってしまうと言うことでもある。好意を抱いている人が相手であればスキンシップであるものが、そうでなければセクハラとなる。もちろん、職場環境でそのようなことをするという前提がおかしいと言われたならばそれまでだが、受ける側の感情により反応が変わるのは間違いない。そして、これは体罰も全くと言って同じような構図である。

 体罰とは、こうした感情により結果が大きく変わるものだという認識がないままに、いくら良い悪いの話をしても納得いく答えなど生まれはしない。体罰厳禁を徹底すれば、むしろ生徒の側に無用の甘えを生み出す温床にもなるだろう。性善説に基づけば体罰など必要はなく、性悪説に基づけば体罰は必要なこともある。
 結局のところ、教育現場に感情を持ち込むのかどうかが焦点となっているような気がしている。教育環境に感情論が有用だとすれば、そのうちの叱るという行為において体罰も一つの発露として許容されることも考えられると私は思う(もちろん、その使用は限定されなければならないが)。この感情を持ち込むべきと考えるのは、教育者側も生徒側も可能性として考えられる。逆にそれを排除するとすれば、システムや制度により粛々と生徒を処罰することになるのではないか。もちろんこれは極論ではあり現実は両者の間にあるのだろうが、そうである限り体罰容認論は消えることがないと思う。