Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

マスコミと官僚の類似点

ネットの隆盛と共にマスコミの権威は大いに失墜したが、そもそもこの状況はマスコミの勘違いから始まったと考えても良いと私は思う。多くの国民は第四の権力とも言われるマスコミの驕りに対して不平不満を感じており、感じ取られる驕りの内容は多岐にわたっているだろうが、要するに専門家ではない単なる情報伝達者でしかないマスコミがあたかも全てを知ったかのような態度に終始していることにあるのではないかと推測している。
確かに、情報を自らの道具として扱うマスコミには、一国民と比べて比較もできないような多くの情報が集まってくる。それ故に、一部の国民の声を聞いても多くの情報を持っているからこそ、その声を補強することも否定することもできてしまう。冷静かつ公平に情報を扱えば、情報から得られる結果に大きなぶれは発生しないかも知れないが、恣意を持ちあるいは感情に走れば同じ情報からでも全く異なる結果を導き出すことも容易なのだ。
「情報を握るものは天下を握る」とばかりに恣意性が先立って見えることが、批判に晒される一番の理由ではないだろうか。そして、これと同じような面が垣間見えるのが官僚である。私はどちらかと言えばマスコミが喧伝するほど官僚は無能ではないと思うし、政治家がしっかりとしていれば十分な能力を発揮する人も少なからず存在すると思っている。ちなみに、マスコミが持ち上げるたぐいの人はあまり信用していないが、それはマスコミが使いやすいからだと判断している。

官僚の場合には、マスコミ以上に多くの情報が集まってくる。その扱いは、マスコミなどと比べれば比較的公平性は高いと思うが、それでもこの情報集中による優位性を自らの優位性と勘違いしてしまう状況は生じやすい。
地方自治体の霞ヶ関行脚は有名ではあるが、予算査定での振る舞いなどを見ていると地方を完全に見下しているようなケースがない訳ではない。確かに、地方自治体の能力が伴っていない場合や無理筋の要求があるようなことも少なくはないだろうが、その驕りが地方の良い提案すらも埋没させているとすれば、やはり問題がない訳ではない。そして、多くの場合は既存の法律や国内的なバランスを元に地方のアイデアに制限をかけてしまうことになる。
本当に必要なのは、マクロのバランスとミクロの個別事情を両方勘案した上で判断できることなのだが、それができる人材は霞ヶ関にも多くはいないように思う。こうした状況が、遠回しにはなるが地方分権化を推進する理由となっているのではないかと思わなくもない。私は何度も書いているように、現状で本当の意味での分権化を受け入れられるだけの能力がない自治体は、まだまだ多いと感じている。それでも、だからこそ国の官僚が行うべきは日本全体(外交面を含めて)と地域の事情という尺度の違うものを比較できる能力を磨くことであると思う。

情報の集中は、それで一つの大きな武器であるのは間違いない。その利用の仕方により結果は大きく変わる。ただ、集まってくる情報は多くの場合システムの成果であって自分の能力によるものでもない。情報を自らの能力で適切に活用できなければ、企業としても国家としても疑念を抱かせることになる。
情報の集積は知識として大いなる財産ではあるが、結局その価値を決めるのは使い方である知恵のありようであろう。マスコミにしても官僚にしても、そこに最も留意しなければならないのは言うまでもない。