Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

社畜

社畜http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E7%95%9C)という言葉にはかなりネガティブなイメージが含まれているが、そもそも会社に飼い慣らされているサラリーマンを第三者の視点から揶揄した言葉である。評論家の佐高信氏が広めたともされているが、私としては終身雇用を前提として構築されたイメージが強く感じられて、その前提が崩れつつある近年の状況下では言葉の持つメッセージ性が低下している気もしている。
それでもこの言葉がメディアや社会においてある頻度で使われているとすれば、むしろ思うままにならない自分を卑下する目的で俯瞰的かつ自虐的に使っている方が想起される。すなわち、個人が会社であったり組織であったりとどのような形で向き合っているかを表す言葉の一つとなっていると考えて良い。組織に対して主導的・能動的に接すること(あるいはそのような地位に就くこと)ができないことを自虐的に言い表すための方法と言うことである。

この社畜と言う言葉をあたかも肯定的に捉えた記事なども見かけた(http://news.mynavi.jp/news/2013/01/11/186/index.html)のだが、記事にあるような能動的に会社を利用できるような人間を社畜と呼ぶのは適当ではない。
むしろ紹介されている事例は、現代の流動的な雇用状況の中で生き残りをかけるためのノウハウ集という感じにも見える。要するに、会社にぶら下がるのではなく会社を自分のために利用しようという心構えを説いている訳だ。こうしたことを実行できる人は、ポジションや業務内容の如何に関わらず、あるいは人がいやがる仕事を厭わず自分のスキルを向上させようとしているのだから、「最強の社畜」などというネガティブなイメージとはむしろ逆の「できる社員」である。確かに会社にとっても都合の良い社員かも知れないが、自分の価値を高めることで会社にとって必須の人材となろうとしている過程の時点をイメージしている。だとすれば、精神面ではなくあくまで業務の内容などの表面的な部分のみを取り上げて社畜と言う言葉を当てはめているに過ぎない。
そもそもこうしたポジティブな活動のできる社員は、社畜と言う否定的なイメージの言葉とは正反対の存在であって、おそらくどんな困難な業務であっても(成否は別にして)前向きに取り組むことができるであろう。言い方が適当かはあるだろうが「できるヤツは何をやらせてもできる」のである。だから、そのような例を持ち出して多くの人に「そうなろう」と訴えかける記事に白々しさを感じてしまった訳でもある。
こうした人たちは、丁稚奉公のように一定の期間は不当とも思える勤務状況でも我慢して自分のスキルを身につけることで、その後は必ずしも会社に依存しなくても生きていくことができる。だとすれば、能力を付けるまでの期間を自分自身のために投資していると考えても良い。あたかも会社にこき使われているように振る舞うだけであって、実質的には会社に飼われていなければ生きていけない存在ではない。
社畜社畜たる理由は、この事例のような精神的な独立が成し得ていないからではないか。

しかし、現実には人それぞれの認識や考え方あるいは性格の違いなどが存在する。社畜と言う言葉が適当かどうかはわからないが、それでも人によればそのように表現されるような労働を日々行っている人が無くなることはない。組織は野球チームの全てがホームランバッターでは成立しないように、様々なタイプの人たちが有機的に補完し合うことで上手く機能する。人でも蟻でも、集団の内であまり働かないグループが常に出来上がってしまうように、組織は自律的に様々なタイプの人を生み出す。
こうした認識が出てくる原因としては、「ブラック企業」などという言葉が跋扈している現状を反映しているためかも知れないと感じている。確かに、雇用環境の悪い企業が存在するのは事実である。企業にぶら下がることを許さず、使い捨てのように社員を扱うケースも少なくない。ただ、「ブラック」と呼称されるような企業は別に景気の悪かった時期でも存在していた。結局、社畜と呼ばれやすいのは企業から叩かれる(こき使われる)層に位置する人たちではないか。彼らはそれでも雇用を維持するために受動的ではあるが必死な状態にある。
そこで、ふと思う。こうした層を切り捨てていった時、企業はそれでも安定するのであろうかという事を。結局のところ、一部の層を人身御供のように叩かれ訳として見せしめにし、それで組織全体に発破をかける。この構図は、桜ノ宮高校のバスケットボール部の事件と同じである。だとすれば、社畜とは企業が考える企業内の捨て石を意味している。

確かに、このようなポジションの社員は企業側から考えればいくらでも取り替えがきくかも知れない。しかし、そこには生産的な意味が発生することはないし、景気が良くなれば雇用自体が難しくなる。また、一定の層が容易に解雇される状況は組織全体にも動揺を及ぼすであろう。
終身雇用は実質的に崩壊していると思うが、雇用の流動性は欧米とは比べものにならないほどまだ低い。だとすれば、会社に寄生している社員を如何に会社と共生できるようにするかは大きな問題だ。社畜と言う言葉は、企業と運命共同体であろうとする人たちのことでもあり、それをどのように上手く活用できるかが企業にとっても意味が大きいだろう。