Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

国民の自律は本当に必要か

総論で言うならば、すべからく国民が自律を意識することが必要なのは正しいと思う。ただ、各論を考えたならば自律で全てを解決しようとするような雰囲気には同時に少々違和感がある。日本人が欧米人よりも自己主張しないことをもって自律的ではないというのは、そもそも社会環境からくる教育システムの違いに起因している。和を大切にする日本社会では突出するものを忌避するメンタリティがあり、それがプラスに働くこともあればマイナスに働くこともある。ただ、単純に各々が自分の我を通せばいいかと問われればそれを旨という人はいないだろう。
自律的は独善的とは異なるのは明らかだが、自分で判断を続けるという意味においては個の責任を重く見る。ただ、それとは別に集団として行動する場合には個を抑えて集団を生かす手法もあり、その場合は個の主張を抑える代わりにその責任も軽く見なされる。本来であれば集団の指導者が責任の大部分を担わなければならないが、現代日本ではその責任を負うものを不明瞭にすることで個も集団も責任を取らないことが横行してきた。
その典型が物事を決められない政治であり、結果的に世論迎合主義に走り現在に至る。誰も責任を負わないからこそ、今存在しているツケを社会の誰かに対して押しつけ合っているに過ぎない。もちろん国の問題は誰かが立場上の責任を負ったからと言って、実害は最終的には国民自身に降りかかる。

政治家や官僚などの国民に責任ある存在が自分を律する事は当然であるが、国民の自律心が不足していると言うならば最初に求められるべきは彼らであろう。その上で、確かに国民一人一人が自律して生きていける世界があればそれも良いかもしれないが、自律は同時に自らの生き方の主張も伴う。何も、責任感のみが肥大するとは限らない。当然そこでは責任感の増大と共に権利要求の感情も湧き上がっていく事になる。
多くの場合、自律を促すというのは責任感の単なる欠如と言うよりは、権利要求に比して責任感が不足しているという状況を言うのではないか。すなわち、国家統制のみを考えれば国民は権利要求をしなければ他律的でも全くかまわない。むしろそうし向けるように誘導さえさせられる。現状の、政治的な自律の主張はこうした過去へのアンチテーゼでもあるのではないかと感じる。
あくまで私の勝手な予想であるが、自律した個人を要求しながらもそこでは責任感のみが大きく要求される。自律の過程で同時に得られる権利要求は、おそらく抑え付けられる事になるだろう。このフレーズとは意外と偏ったものである可能性が高い。

もちろん、個別に考えれば主体的に情報を収集し、主体的に判断して行動する。そうした生き方が望ましいのはわからなくはないが、社会というものを営む上では社会規範という主体性を封じ込め抑圧する存在とも折り合いを付けなければならない。現状の日本の国民の言われる主体性のなさは、その折り合いの中で生み出されてきたものであり、それがこれまで放置されてきたのはむしろその方が統治上都合が良かったと言う事ではないか。
だとすると、アンチテーゼとしてしか意味がない自律の言葉は結果的に片務的な責任の押しつけに終始する可能性は非常に高い。相応の権利主張を代償に得られた他律的な生き方は、その代償の回復なしに責任のみを押しつけられるとすれば、それは本当に正しい状況だと言えるだろうか。
ここまでの議論は、あくまで想像上のものであるから正しいかどうかはわからない。それでも、自律的な生き方とは自己主張との裏返しでもあるとすれば、気がついたときには自律という言葉が単に国民に責任を押しつけるだけで終わってしまうような気もしないではない。
何も自律性の全てを否定するつもりはないが、その上でやはり自律的ではない生き方が否定される雰囲気というのはおかしいような気がするのだ。少なくとも全国民が自立性を要求されるという国家は効率性で言っても非効率であろう。