Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

ロンドンオリンピック雑感

男子サッカーの予想以上の活躍などで始まったロンドンオリンピックだが、個人的には今ひとつ心の中に盛り上がるものが足りていない。それは世の中の人多くが感じているのか、私一人がそう思っているのかは全くわからないのだが、まだ序盤から中盤に過ぎないオリンピックがこれまで感じてきたものより色褪せて見えるのだ。
もちろん個々の競技は今でも白熱しているし、私もサッカーは必死になって応援したりする。だから個別の競技の内容ではなく、全体を包む朧気な雰囲気というよく判らないものを感じ取っているとしか言い様がない。ただ、こんな印象論ではあまりに漠然としすぎているので、もう少し細かく考えてみよう。

一つには、商業主義の行き届いたオリンピックに飽きてしまったという面がある。4年に一度という希少価値があるために、未だにコンテンツとしての価値が下がる気配はない。放映権料は回を重ねるように上昇しているようだし、無駄遣いについては多少抑制され始めてはいるが、お祭りとしての位置づけに加えて国家の威信発揚を考えれば限界はあろう。それでも、現時点までイギリスが金メダルを獲得していないと聞けば、国家の威信をかけた無茶なことはそれほど(多少はあるだろうが)しなかったのだと思い、少しほっとしたりもする。
どんな方法であっても、興行である以上はマンネリ化は避けがたい。1984年に行われた第23回ロサンジェルスオリンピックの頃からスポンサードの強化による商業主義化に加速がついたと言われるが、それは功罪共であったと思う。コンテンツとしての価値が上昇すれば、それを維持するための仕掛けがどんどん必要になり、結果的には純粋性が失われていく。

これ以外にも、柔道などの日本選手の結果が出ていないことも影響していると思うのだが、そこにはスターの不在、柔道競技そのものが過度に組み合わない状況になっており競技の面白味が低下していることが感じられる。若い金メダル候補が次々と現れるような状況があれば、それはニュース価値としても非常に大きいだろう。
柔道競技における日本選手はと言えば、日本対策をされて組み手を取らせてもらえないという面はあるだろうが、同時に攻めの姿勢がやや感じられず金メダルを守りの姿勢で取ろうとしている感じがするのだ。それは、技や能力を競うと言うよりは、勝つことのみが意義となっている感じが強い。
それでも、お家芸の柔道ではそうならざるを得ないのかも知れないが、勝つことのみではなく素晴らしい競技を見たいものとしては少々悲しすぎる。日本柔道だからこそ魅せるそれを見せて欲しいのに。

それ以外で言えば、金メダルの経済的価値の上昇がもたらす問題が考えられる。もともと、アマチュアリズムにおける名誉的な価値が与えられていたそれが、プロ化の影響もあってか経済的側面が強まっているように思うのだ。ある意味、スポーツに人生を傾けてきた選手達だからこそ経済的な対価があってよいとは思うのだが、正直言えばそれは獲得したメダルにより大きな差があるのはまた違うようにも思う。最高の感動を与えてくれたことに対する対価としての経済的報酬であってほしい。
とは言え、感動は受け取る側の心の動きであって選手に責任があるわけではない。勝負なのであるから勝つことを至上とするのも一つの向き合い方として当然否定されるわけでもなく、これは見る側の勝手な期待であるのだ。
ただ、コンテンツとしての価値はそれを見るものの感覚で定まる。オリンピックの商業主義化がそのコンテンツとしての価値を高めてしまったことが経済的価値を増大させて、結果的に競技に向かい合う姿勢まで大きく変えてしまうとすれば、やはりどことなく寂しい。