Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

平等が鬱を生むのではないか

潜在的な患者も含めると、日本国内だけでも鬱病患者は数百万人いるとも言われる(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2150.html)。鬱の症状自体は昔から潜在的に多く存在したと思うが、それが社会問題になるのはそれが社会的弱者として切り捨てられるのではなく、社会的弱者として保護されるようになったことが大きい。
経済的成長が社会的寛容さを生み出し、社会による弱者保護という理念を明確にした。イメージとして過去の方が相互扶助の精神が強かったとされるが、それはあくまで公的扶助がほとんど無かったためでもあり、一部の相互扶助の陰で助けられずに消えていく存在も多かったであろう。

私は個人的に精神病の多くは脳内疾患(分泌異常、機能異常など)ではないかと考えているが、精神的依存による擬似的なそれ(いわゆるサボり)と見分けることが困難でもあって、なかなか対処が難しい。それでも、現代社会に蔓延している心の病気が全て「さぼり」によるものなどであるはずもなく、如何にそれを抑えるかは喫緊の課題でもある。
なぜ、現代社会ではこれだけ多くの心の病が発生するのであろうか。一つには、現代人の心理的な抵抗力の低下があるのではないかと感じている。かつてと比べて、生きていくための環境としては今ほど良い時代はない。平和であったと言われる江戸時代でも死亡率は今よりずっと高いし、幾度かの飢饉や病気の蔓延もあって、生きていくためのストレスが今の時代よりも低かったとは思えないのだ。
同時に、厳しい話ではあるが死亡率が高いという事はそれだけ弱いものから死んで言っていたという事にもなる。死は必ずしも弱いものばかりを襲うわけではあるまいが、それでも体や心が弱いものが先に死んでいくという事は想像に難くないし、生物の真理としても淘汰が行われるのは当然である。すなわち、精神的な病を抱えたもの達は十分に庇護されることなく死に至っていた可能性は低くない。
こう考えると、現代社会はそうした人たちが生きていけると言うだけでも大きな進歩になるのではないか。もちろん、古い過去と現代を同列に見なす事が必ずしも適切であるとは私も思わない。今なりの倫理観で判断されるべきであろうが、それでも今がもっとも悲惨である訳ではないとベースを捉えておきたい。

社会保障が心の病を多少は救うサポートとして機能しているとはしても、考えてみればそこに至らない事がもっとも望ましい事である。心の病がなぜ発生するかは、まだまだ未知の事も多く今後の研究によるところは少なくないだろうが、原因の一つに社会的ストレスがある事には間違いがない。
それは社会の側としてはストレスが増加している、あるいはストレスの質が変わっているということがあるだろうし、人の側からすればストレス抵抗力の低下が想定される。現実には個別の事例を見れば千差万別であって様々な例が考えられるのだろうが、どれか一つが決定的な要因であるというわけではなく複合的なものであり、かつ相対的なものだと思う。
ここで個人のストレス抵抗力を上げるという事が考えられるわけだが、それは心理的に鈍感になるという事でもある。一時「鈍感力」なるキーワードが流行したりもしたが、それは自己精神防衛のための方法だとすればあながちおかしな事ではない。ただ、各人がそれに突き進んだ社会に未来があるかと言えばこれもまた疑問である。個別の努力は必要としても、社会としてどのように対応すべきかについては気を配っておきたい。

そこで一つ思うのが社会の寛容力である。それは弱肉強食的な自己責任社会とは全く逆の方向に向かうことなのかもしれないが、弱いことを許容できる社会を意味する。では、今の時代になぜ寛容性が薄れてきているかを考えてみると、それは過度の平等性の追求があるからではないかと思う。
平等性の追求は、差別を解除する意味で大きく役立ったのは紛れもない事実だ。ただ、平等性の追求は権利の平等と共に義務の平等も付与する。技術や精神において一部弱い人が存在した時に、この義務の平等性が彼らを苦しめるのではないかと感じる部分がある。平等が社会の寛容性を奪っているのではないかという推論だ。
実際のところ、それが正しいのかどうかはよくわからない。差別はできる限りない方が良いと私も思うし、できることなら皆が等しく幸福であればよいと漠然とは思う。ただ、現実は差異を許さないことが人の心を追い詰めている、あるいは逃げ込むべき場所を無くしているのではないかとふと考えてしまうのだ。
社会が寛容であるためには、それに応じた何かが必要ではないかと思う。今の社会にもそうした制度にはない慣習的な仕組みは多く存在しているが、近年の過度な平等を排する動きは意外とこうした面から生まれているのかもしれない。