Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

誰のために生きる

自分のために生きるという人も少なからずいるだろうが、それでも多くの人は誰かのために生きるのだと主張する。もちろんそれは一生を誰かに捧げるという意味ではなく、他者との人生の共有を通じて自らの人生を考えるという意味だと思う。だから、ある時には伴侶のために、またある時には子供のために、親のために私達は生きていく。「誰」は時期により変化するだろうし、人のことなどにかまえない時期もあるだろう。それでも、人は自分の生きる理由を己のみに理由づけることは少ないのである。

別に人のために生きることが悪いわけではない。むしろ、人生訓などでは推奨されることであって、己のためのみにに生きてはならないと説かれがちである。私も一面的にはそうした説法の正しさを感じることもあるが、他方でなぜ人は自分の生きる理由を他者に求めなければならないのかという疑問を感じる。自分勝手に生きるということではなく、生きる意味を己の判断に委ねられないのかということとしてだ。
おそらく私達は人のために生きているのではない。自分自身のために生きているのだが、それを肯定するに値する判断基準を有していないが故に、その判断基準を他者に委ねている。あるいは自分以外の人を介したフィルターを通じて感じることで、自分が自分で判断すると言うことを巧妙に避けているのではないだろうか。誰かのために生きるのは、その人を生き甲斐にするあるいはそこに理由を求める形式を取りながら自分の生き方を自分で肯定しているのではないかと思うのだ。
「人のため」と献身する姿も結局のところそうしたい自分のためであると言われることがある。献身する自分が好きであるが故に、人のために生きる。別に結果としての行為を否定するつもりも何もないのだが、人とは生き方そのものは本来利己的であるのだろうと思うのである。
ただ、その利己的な行動を肯定しきれない自分がいるが故に、生き様の理由を誰かに押しつけているのだ。

仮に理由を誰かに押しつけるものとしても、その結果がその誰かにメリットのあるものであるならば、行為は肯定されやすい。第三者から見る表面上は献身する姿として肯定され、己の中では生き方を自分の責任と感じなくて良いのである。それは、結果的に社会におけるお互いの関係性を与え、人と密接に繋がる原因ともなる。そして、そのオーバーラップが重層され現実の社会が構成されているのである。
逆に考えれば、今の人間社会とはこうした関係性の上に成り立っていると言っても良い。社会性の構成要因がそこにあると考えれば、その要因そのものを否定することなど誰にもできはすまい。
己の生き方を己のみに求めると言うことは、一種求道的な行為でもあるがすなわち社会に依存しなくても生きていけるという考え方でもある。学校や社会に反発する子供達が、結局悪びれたグループで上下の階層関係を作っているのを見るに付け、結局自分が納得できる関係性・依存性を求めているに過ぎないのではないかと考えると、人とはやはり一人では生きていけない生き物だと深く感じさせられる。

「我思う故に我有り、ただし我が思うは他者の存在なり。」