Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

反日ではなく無能

無能な働き者は最も困りものと言われたのは菅元総理であるが、朝日新聞も似たようなものだと私は思う。5月3日の天声人語で自ら(と書いていないが)を反日ではないと擁護せざるを得ないのは、反日というレッテル貼りでの勝負をした方が無能呼ばわりされるよりはマシだとのすり替え議論とすら感じるのだ。ちなみに、天声人語はネットではログインしないと表示されないようなので、ここでの引用は差し控えるが検索すれば容易に見つかると思う。

実際には、非常に真面目に自らは日本という国を愛していると主張したいのであろうが、朝日新聞が目指す日本という国のイメージに同意できない国民の数が増加しているとすれば、両者が用いる同じ「国を愛する」という言葉であっても当然その意味は違う。朝日新聞が指し示す日本という国のイメージを許容できないと考えるからこそ、朝日新聞の報道姿勢を「反日」とレッテル貼りに動く人が増えるのではないだろうか。
とは言え、私も朝日新聞が単純に「反日」だとは思わない。それよりは、むしろ日本という国が豊かになるための足を引っ張っていると考えている。しかも、大まじめに使命感を持ってそれを実行しているわけなのだ。私が朝日新聞の記事について気になるのは、どちらかと言えばその選民意識的な視点である。もちろん本人達はそんなことを想像したこともないだろう。ただ、結果的には世論をリードしていると思うそのプライドが記事や社説の端々に現れてきていると強く感じるし、既に何度もエントリで触れてきた。
プライドを持つことは必ずしも悪いことではなく、それが自らを律する方向に作用するのであればむしろ望ましい。そのプライドは自らの突出を抑える役割を果たし、自問自答を要求するものを意味している。場合によっては、自らの過去すらを明確に否定できるだけの自律である。
ところがプライドの作用が悪く出た場合には、そのプライドは自らの起点として作用する。得たプライドや名声(あるいは信頼)をもって新たなものを構築していく。それは拡大展開には非常に役立つものではあるが、起点としている関係上自己否定が難しくなる。ちょっとたとえが極端ではあるが、自分の間違いに気づいてもそれを一旦嘘で誤魔化してしまうと、後は嘘を嘘で塗り固めるしか無くなってしまう。最初の嘘を自己認識して、その地点に戻る勇気があるプライドを期待したいのだが、最初を否定できなくなってしまうのが大きな問題なのである。なぜならば、それは自己否定に繋がり、それまでの信頼を失い、そして経済的な利益をすら失うことだからである。

これは言い方を変えると、本来権力のチェック機関であり権力側にとって都合の悪い情報を流す機関である新聞社が、権力者に都合が悪いという基準ではなく自分に都合が良いという基準にすり替わっているのではないかと思うのだ。それは結局のところ、攻めの姿勢から守りの姿勢に入っていることでもある。
報道機関の信頼性とは、自らの姿勢もあろうが会社組織そのものの姿勢よりは、情報の扱い方に関する姿勢により決まるのではないかと思うのだが、朝日新聞などでは意図的にあるいは自らも気づかずに両者を混同しているのではないかと感じる。その混同が、報道に対する接し方についての厳しさを曖昧なものにしていると思うのだ。
これまで自分たちがしてきた主張を捨てきれないから、報道すべき内容が社会変化と共に変化したとしても、それを認めることができない。かつては自らの報道姿勢が社会の趨勢と近かったのであろうが、現在それが乖離してきていても認めることができない。要するに、自らが社会から離れたのではなく、社会が自らから離れたという認識に近い。間違っているのは社会の方なのだから、それを正す責任があるという論理である。
変な話ではあるが、一介の報道機関に過ぎない政治的中立性を謳う存在だとすれば、これは変な話である。中立であるならば予断を許さずあるがままを受け入れるべきであろう。もちろん、ほとんどの国民が政治的な中立性など信じてはいないのだが、それを信じなければ自らの立脚点が崩壊してしまうと考えているとすれば、可笑しさを超えて可哀想にさえなってくるのである。

私は、朝日新聞であっても個々の記者はそれなりに正義感に燃えているのだと思う。ただ、社のこれまで取ってきた立場が現状の言論を実のところ大きく縛っており、その結果生じる矛盾を認められないのが現状だとすれば、やはりそれは改革できない企業と同じように社の経営陣(あるいは報道姿勢を決める人たち)が無能なのだ。この構図は、原子力問題における東電も、その他の不祥事を起こした企業群もさほど変わらない。
現状に疑問を感じず、それが大きく露呈するまで取り繕いを続ける。それこそが新聞社が断罪し続けている対象であるにも関わらず。

「普段は無駄かも知れないが、自己の規律を常にチェックし続ける存在が重要なのだと言うことを感じさせてくれる。」