Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

民度と良心の相関

最近の中国では、事故にあった少女や男性を誰も助けないなどと民度の低さが嘆かれているが、そもそも民度とはどのような尺度で決まるものなのだろうか。
私は、それを同じ仲間だと認識できる範囲による違いだと思う。極端なことをいえば、自分の家族しか信用できない人は家族内の事を除けば社会的に孤立するだろうし、逆に周囲から評価される個人的な民度も決して高くはなり得ないだろう。
日本人は、どちらかといえば比較的広い範囲にまで仲間であり友人だと認識する。それは、おそらくほぼ単一民族であるという認識や感覚の共有性が大きく影響している。同族意識が高いと行っても良い。他者を疑ってかかる社会では、民度と呼ばれるような指標はそもそも生きていく上で優先順位が低いのである。
ただし、その場合の民度は博愛精神とは少し違うようにも思っている。分け隔て無い愛情を周囲に注ぐことも非常に素晴らしい行為だと思うが、仮に悪人にも寛容な心で接するからと言ってその事実を持って民度が高いと評価されるケースはあまりないだろう。民度とは誰にでも手をさしのべる事ではない。

この「民度」という尺度は他の言葉で言えば「良心」と置き換えて考えても良い。私達が良心を働かすのは、明らかに敵対する相手ではなく心理的に繋がろうと考える相手に対してである。極論を言えば、戦争中の敵国であっても個人としての感覚が相手を明確な敵だとみなさない限りにおいて良心は及びうる。すなわち、いったい誰までを良心において救う気になるかという問題なのである。そこには相互主義的な仲間意識が存在するが、これは恩には恩に報いるという主義や思考の近似性が必要でもある。これを「お互い様の論理」と呼んでも良いかもしれない。
こう考えると、鳩山元総理はある意味典型的な日本人と言えなくもない。ただし、一般的な日本人と比べてもその良心を及ぼす範囲が相当に広い。だから、その広さを持って宇宙人と評価されるのも至極当然だろう。

最近のネットなどを主体にした嫌韓・嫌中感覚などは、この良心を及ぼす範囲を見直そうという動きとも取る事が出来る。一部マスコミや地球市民的な活動が、「お互い様の論理」が世界的に通用するとの甘い言葉を囁いてきたが、その結果得た教訓はその論理が通用する範囲は思っているほど広くないということであったのではないか。
だからこそ、それが通用しないところに対する反発は「良心」に痛みを感じなくて良い相手だと認識している事でもある。そして、その疑念の感覚はお互い様の論理を広めようとこれまで努めてきた主体であるマスコミなどにも鋭く向けられている。韓流デモなども、単純に韓国押しが嫌だと言うだけではなく、マスコミ不信という土台の上に積み上げられているからこそ容易に火は消えない。

中国や韓国は日本と比べても良心を向ける範囲はおそらく狭い。それは一族郎党を守るという意識が強いためでもあろうが、社会よりも家族という感覚が強い事があろう。例えば災害の時に家族と家族以外のどちらを先に助けるか。もちろん一般の人なら家族を先に助けるであろうが、公的な職に就く人の場合は日本人であれば家族以外を優先すると思う(もちろん絶対ではない)。それは、災害などの特殊な状況下では同じ日本人を(あるいは日本人ではなく住民を)家族と同様に見なしているという側面だと考える事が出来る。民度が低いと評される国では、おそらく公的な職に就く人でもまず家族を優先して助けようとするケースが多いであろう。同じ国民、あるいはご近所さんであっても信用していないという事でもある。
これらは普段からの生き方でもあるので、社会全体として急速に変わる事など考えにくい。ただ、それを失う事は比較的容易である。今日本も、徐々に他者を信用しない社会に移行しつつあるという懸念は正直なところ強く持っている。
近頃では、自分さえ良ければいいと考える人が増えていると感じられる事もあるし、その人達は良心という概念を理解できないのではないかと感じるフシもある。もちろん私も偉そうな事を言えた義理ではないが、「お互い様の論理」が通用しにくい社会というものはそれに慣れた者からすれば、非常に生きづらい社会でもあろう。
さて、そう考えたときに移民問題や多文化共生問題にこのあたりの議論はどの程度含まれているのか少々気になる感じもする。

「良心は他者と自己の同一化を経て理解できる。同一化が不可能な相手には、逆に良心を及ぼし得ない。」