Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

何をではなく何時するか

私達は、いつも自分が何を為すべきかを考え悩む。何を買うべきかを悩み、何処に進学するかを思い、何を職業とすべきかを考え、誰を伴侶にするかを苦悩する。
「何を」と言う思考においては「何時」という判断は無視はされないものの軽視されがちだ。「何を」についてのみ考えるとすれば、その判断において時間軸が関係しないことから思考が容易になることが大いに関係しているのだろうと想像する。「何を」に加えて無限の時間を相手にする「何時」まで判断材料に加えたならば、大河の流れに抗するような無力感を抱くことになりかねないのだから、その判断をすることは理解できなくはない。

しかし、多くの選択の場面において私達は自らが取るであろう選択の結果について薄々気づいているものである。その選択が自らの意思において行われると誰もが信じて疑わないだろうが、実際には表面的な理性ではなく無意識の声に突き動かされて選択することが非常に多いのだ。
もちろん、人によっては感情的な行動を徹底的な排除することのできる人もいるだろう。それを否定はしない。ただ、その行動すら実はそうしたいという本能のささやきに突き動かされているかもしれないと私は思う。
仮に理性的な判断をするとして、その場合の方が比較対象の優劣を判断するに迷いは少なくなるであろう。多くの場合には、感情の理性の間で揺れ動くものなのである。そして、私達が理性を取るケースは判断の重要性が高いほど少なくなる。「理性では割り切れない」と良く言われるが、決断の重みが高いほど意思の自由は束縛されがちなのだ。
繰り返しになるが、それに打ち勝つ克己心を否定するつもりはない。ただ、多くの場合に朧気に選択する対象のことはわかっていながらも、感情と理性の狭間で思考のループを繰り返すのだ。それは、むしろ十分に考えたという言い訳を自らにするような行為にも見える。
理性には波が少ないが、感情には大きな振れ幅がある。その振れ幅が大きくなるものほど、理性の小さな波が打ち消されてしまいがちなのだろう。

そうでもないという考えもあるだろうが、自分が選択すべきものを囁く心の声に気付く人は多いと思う。良く言われることだが、3時間真剣に考えて至った結論はあといくら時間を掛けても容易に変わるものではない。もちろん、新たな前提条件が現れない限りはという条件付きではあるのだが。
こう考えてみると、私達が真に決断しなければならないことは「何を」よりも「何時」であることの方が多いことに気づかざるを得ない。ところが多くの場合には「何を」を決断したことに満足して、この「何時」に対する判断が曖昧になりがちである。本当のところを言えば、「何を」と「何時」は不可分の関係にある。それはごく当たり前のことではあるが、何を選択するかにより起こすべき行動のタイミングが変わると言うことだ。
だから、「何を」が既に決断できる状態にあるとすれば、私達の意識は「何時」に大きなウエイトを掛ける方が理に叶っていることになる。そこで当初の問いに戻る。現実には「何時」を判断することは非常に難しく、実際多くの場合私達はそれを間違える。
更に言えば、「何時」の正当性を明確に指摘することは非常に難しくわかりにくい。だから、マスコミも「何を」の是非を中心にしか話すことがない。「何時」はテーマになりにくい厄介者なのである。

しかし、多くの場合において厄介なものほど重要であることを私達は知っている。加えて、「何を」よりも「何時」の方が重要な要因だと言うことも。
普段の生活においてもついつい忘れがちになってしまうが、「何時」という問いかけを忘れないようにしていきたいし、報道などにおいてもその点を注視したい。

「政治家の本分は『何時』、『どのように』を判断することだと思う。『何を』は実働部隊に準備させればよいのだから優先度は低いのだ。特に、内閣の重鎮に座るものにはその重要性をわきまえて貰いたい。」