Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

タトゥーとガングロ

入れ墨(タトゥー)の歴史は古い(wikihttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E3%82%8C%E5%A2%A8)。当初はまじない的な役割を果たしてきた部分もあると思うが、それ以上に明確に言えるのは十分な飾り立てが出来なかった時代からの装飾の役割を果たしてきたと言うことがあろう。社会が成熟して行くにつれ、施される装飾は身分の違いを強調するために使われてきた面も強い。ただし、社会の成熟は他の装飾方法の広がりも意味するため、体に刻み込む形の装飾はその不可逆性もあってより強烈なメッセージを発してきたのではないだろうか。
入れ墨は特定のグループを識別するためのサインとして機能し、罪人を示すものもあれば、高貴な存在を示すもの、あるいは個人を特定するための記号として様々な形で用いられてきている。
入れ墨と言っても、単なるサインを施すこともあれば、文字を残すケースもあり、そしてアートを施すこともある。その目的に応じて非常に幅広い利用用途がある。唯一共通するのは体に刻み込むと言うことであって、それ自体が強烈なメッセージ性を持っている。

かつては、戦国武将などは戦いに敗れたとき首を刈られることから体に名前を刻んだとされるし、中国マフィアなどは仲間を識別するための入れ墨を施すケースもあった。これらは識別記号としての利用である。ただ、現代社会においてはその必要性が薄れている気がする。一部では街のギャングがそのイメージを受け継いだりもしているだろうが、どちらかと言えば識別のためよりも誇示のためイメージが強い。
また、身分の差を示す入れ墨の使用は服装などの別の装飾によって賄われている。その結果、現代社会では特殊な環境下にない限りファッションとしての入れ墨が最も大きなウエイトを占める。一部には家族の名前を刻み込むというケースも見られるが、これらが若干識別記号としての機能の名残だと言っても良いかもしれない。

ファッションとしての入れ墨は非常に古くから存在していたであろうが、体に刻み込むというメッセージ性の強さから近年社会的には敬遠されやすい。特に日本社会ではやくざなどがよく入れ墨をしていたという認識があるためか、欧米以上に入れ墨に対する許容性は低かったように思う。
ただそれでもかつてヒッピー文化と共に流行したこともあるし、最近も密かに広がっているのであろう。欧米などではスポーツ選手なども大胆な入れ墨をしている選手も多く、サッカーのワールド杯でもいくつかの国の代表選手はかなり大胆な入れ墨をしていた。
ニュースサイトでは、欧米人が漢字を入れ墨のモチーフとして使うことが報道され、勘違い的な利用を面白おかしく書き立てている。ただ、こうした報道がファッションとしての入れ墨に対する日本人の心理的な障壁を下げたのかどうかはよくわからない。

さて、入れ墨には純粋なファッションとしての側面があるのは確かであるが、医療技術が発達した現代においてもそれを完全に消すのが容易ではないことを考えれば、それを行うことはやはり慎重でなければならないであろうと私も思う。服装や装飾品によるファッションは時代と共に容易に変えることが可能ではあるが、入れ墨によるそれは改変が実質的に出来ない。それは、考えてみれば非常にリスクの高いファッション選択である。例えば、ある時代にミニスカートが流行っていたからと言って、それを一生貫き通せる人は非常に稀であろう。もしそれが出来るくらいの自信と覚悟があるのであれば、入れ墨を完全に否定するものではない。実際、入れ墨を感じる法律は存在しないのだから。
ただ、人の考えは時代と共に変わるものである。それを貫き通せるなどと言う一時の強い自信も時と共に変容するのが常であり、実際にそれを後悔しているもの達が少なからず存在する。

この程度のことは若者でも基本的には理解できるだろうが、それにも関わらず入れ墨をファッションとして利用するものが後を絶たないのは、そこに込めたメッセージ性があるからではないかと思う。そのことを考えたときに、今ではほとんど見られなくなったがガングロという一時的な流行を思い出した。
ガングロというどちらかと言えばファッショナブルとは言えない個性的な自己表現は、自己主張としては強烈であるが社会的には容易に受け入れられないものであった。その表現は受け入れられることを目的としていると言うよりは、むしろ自分の存在を強く訴えかけるものである。埋没や無視ではなく、否定であっても自己の存在を確認できると言うことに重きを置いていたのではないかと感じている。
それは社会に対する恫喝にも近い主張ではあったが、それがニュースに取り上げられるなどという反応を通じて社会との接点を探っていたのではないだろうか。

さて、入れ墨についてもそれが社会的には容易に受け入れられないことを知りつつも、その行為に走る部分はガングロの場合と近い。全てがそれとは言わないものの、それは社会に対する抵抗と恫喝。それによって自己の存在を主張する行為ではないだろうか。
ただ、ガングロの場合とは異なり入れ墨は容易に改変できない。それだけ強い主張でもあるし、自らの体を一種傷つけるという悲壮な決意は傷に耐える姿の写しかえ、すなわち自傷行為と似ているようにも思える。自己の強さを恫喝的な入れ墨によって表現する感覚はわからなくはないが、単純な恫喝という面だけではなく己の身に傷をつけるという決意を入れ墨という手段を選択しているように感じるのだ。ただ、社会がその主張をその通り受け入れているようには今のところ見えない。

「社会に対する反抗としての表現も入れ墨が全てではない。その多様性に気づかず、ファッションだと勘違いして雰囲気で入れ墨に流れているとすれば少々悲しい。」