Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

ご褒美と宝物

宝物とは、一体どんなものを指して言うのだろう。自分にとって大切なものを宝物と呼ぶ。ただ、その宝物が常に宝物で居続けられるかどうかは正直わからない。
子供の頃宝箱に入れていたおもちゃ。今ではよい思い出になるかもしれないが、それは懐かしさという別の意味に変質している。子供は私の宝ですと言っていた母親が、大きくなった子供と罵りあう。別に万事が全てそうとは言うつもりはないが、それでも宝の価値は大きく変質するのである。

それでも、どの時代においても宝物と呼べるような何かを持つ人は少なくない。それは自らのチャームポイントかもしれないし、大切なパートナーかもしれない。あるいは自ら得た知識であったり、珍しいものかもしれない。
宝物を宝物と位置づける最も大切な要素は、そこに強い思いが込められていることだろう。その思いの理由は強い自負心であることが多いように感じるが、その自負心は同時に執着心とも結びついている。好きだから大切にし、大切だから夢を込める。
すなわち、宝物とはその内容にどれだけ深く接し関わっているかという成果そのものなのかもしれない。

思いがなければ宝物にはなり得ない。どんな高価なものであろうが、どんなに珍しいものであろうが、それに興味なくしてはガラクタと何も変わらない。逆に言えば、人からすればどれだけ粗末で陳腐なものであろうが、強い思いがあればそれは十分な宝物になる。子供の頃に多くの宝物を持ち得るのは、ものに対する執着心がそれだけ強いからなのかもしれない。
もう一つ、宝物を真の宝物と化す要素がある。それは希少性ではないかと思う。ただし、社会一般的な希少性ではない。あくまでそれを宝物と認識する自分自身の心中での希少性である。自分の中でもより重要な宝物が序列によって決まる。もちろん序列を付けがたいものもあるだろうが、宝物と認識するものが多ければ多いほど希少性が強く意味を持つ。

ただ、私の認識としては宝物などそれほど多くは持ち合わせないと思っているのだが、中には数多くの宝物を認識する人もいる。その差はどこから現れるのであろうか。これは、一つに上記の序列化が苦手な人にこそ多くの宝物を抱くようになるのではないか、、、と思っている。
宝物にも優劣を付けることができれば、希少性の薄いものほど宝物と認識されにくくなる。ものにもよるだろうが宝物の地位から脱落するものが常に存在するのだと思う。私達は、一生同じものを宝物として心に抱き続ける訳ではない。人生の時々において新たな宝物を見付けていくことも多い。そして、宝物は更新され続ける。
逆に言えば、長い時間を経ても更新されないような宝物を抱き続けられるのであれば、それこそが自分にとって最も大切な宝物と言えるのかもしれない。仮に、あるときその宝物が突如陳腐化して感じられるときが来たとしても、それを宝物と感じて過ごしてきた長い時間は意味ある思い出に変わることができる。なぜならば、その宝物に込めてきた時間は自分がそこに真剣に向き合った時間でもあるからだ。

さて、宝物とは少し異なるものとしてご褒美がある。今では自分に対するご褒美などと言う言葉もよく聞かれるが、原則としてはやはり人から貰うものと認識する方が腑に落ちる。
褒美はどんなときに嬉しいのであろうか?それは貰うものの内容にもよるだろうが、最も重要なのはそれを貰う相手ではないか。その相手に興味がなければ、貰うものの内容が急激に幅を利かせ始める。別に褒美ではなくプレゼント(貢ぎ物?)でも似たようなものだが、立場的なものの違いがあって心理的状況はかなり異なる。
貰う相手に対する思いが強ければその褒美は十分な宝物になり得るし、さらに希少性がそこにプラスされるであろう。どちらにしても心の中における相手の重要性がものの重要性を確実に上回り、それによってものの価値が決定される。その相手に貰ったという事実がもっとも重要であり、その証拠としてものの役割が認識されると言うことだ。それは、ものの形をとった人に対する執着なのだと思う。

「宝物とは何かに対する執着である。ただ、同時に心の拠り所でもある。」

今週のお題「私の宝物」