Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

時を意識する時

光陰矢のごとしとの言葉は、年を経るに従って切実なものとなる。若い頃には無限にあったように思えた時間が、気づけば数えられる程度になってしまう。死という深遠を見据えたときに、時は俄然大きな意味を有した存在としてクローズアップされる。そう考えると、時とは一様ではないなと感じられる。時間(wikihttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E9%96%93

もちろん、物理的な存在としての時間は本来一定であるはずである。いや、一定であるかどうかなどは誰にも正確に観測はできない。だから、時間は絶対的な存在として操作することができない軸として定義されるのみである。それでも人は不正確ながらも時間を体感することができる。もちろん、その体感する時間は人により大きく異なるし、同じ人間でも年齢や体調やあるいは取り組んでいる内容によっても大きく変わる。
このように人が認識する時間とは全くもって正確な存在ではないのにも関わらず、人は自分の時間感覚を結構重要視する。人の意識が散漫なときには物理時間よりも体感時間の進みは速く、人の意識が集中しているときには体感時間は物理時間よりも進まない。もっと言えば、速く時間を進めたいときには時間は進まないし、時間が不足していると感じるときには時間は速く経過してしまう。さらに言えば、時間そのものに気が行かないときには最も速く現実の時間が経過するのであろう。思い通りには行かないのだけれど、見方を変えれば都合の良いものでもある。
要するに時間を意識したときには自分が思い描く時間の流れが存在し、それよりも実際の時間経過が速かったり遅かったりするのを評価しているわけだ。時間を意識しなくて済むような状況では、それこそ時間は光よりも速くなる(そもそも速度と時間は異なる単位なので比較すること自体に意味はない)。それは、比較する基準すらが無いのだから当然のことながら信じられないくらい速いという感想を抱くことになる。算数的に言えばゼロで割るようなものだろう。

一方で、子供の頃には時間の経過が遅く感じられ、歳を経ればその経過が早く感じられるというのは多く人が共通に有する認識であろう。その理由としては、子供のそれまで生きた時間に対する経過時間と、高齢者が生きてきた時間に対する経過時間では、母数が異なるために人が認識する時間量に差が出るという考え方が提示されている。5歳の子供の1年と、50歳の大人の1年では価値が異なると言うことだ。
短いスパンの時間はどのように意識するかにより異なり、長いスパンの時間は経験の長さにより異なると言うことになる。経験から捉える時間というものは、考えてみれば自分自身の記憶を積み重ねて判断されるものであって、事象の断片(記憶)という量を時間という別の量に置き換えたものである。これも、認識する時間を経験という絶対的な母数で割ることで意識する。時間ではなく新たに積み重ねられる経験の量を比較していると考えても良い。

結局のところ、私達は時間の経過を割り算で評価している。あるいは場合によっては他の感覚器官と同じように対数で評価しているのかもしれないが、時間の場合にはそこまで極端ではないだろうというのが正直な実感ではある。そして割り算(対数であっても)とは相対的な比率であって、絶対的な数量ではない。ただどちらかと言えば物理的な時間経過がその割り算の分子側に存在する。
あくまで比率だと考えれば分子側であろうが分母側であろうがあまり差はないのだが、心理的には大いに違うようにも思う。すなわち、基準となる時間が自分の体感であるかどうかなのだ。そして、自分の保有する時間は現実の時間の流れよりは積み重ねられた経験の数に大きく影響受ける。

私達が長い時間を生きたと実感できるとすれば、それはより多くの種類の経験を経ることに依存しており、その多様性が特に重要視されるだろう。
できることなら死に至る残り時間をカウントして時間を過ごすよりも、それまでの時間にどれだけの新たな経験を積むという点において時間を意識したいものだと思う。

「体感時間は、上手く使えば自分が自由に操ることができる指標なのに、それに翻弄される人の方が多い。」