Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

今を生きていく上で思うこと

今が生きにくい時代かと聞かれれば、生きやすい時代だと答えるだろう。決して生きていくのが難しい時代ではない。しかし、社会には閉塞感が漂っている。しかも日本社会に寄生する閉塞感は20年近くに及び、私達の日常としてさえ感じられるようになってきている。おそらく今は個人が生きづらい時代なのではなく、生きづらいという雰囲気というかコンセンサスが覆っている時代なのだろう感じるのだ。

こんな面倒なコンセンサスなど無いに越したことはないのだが、なぜか打ち破られずに時間のみが経過する。今学生時代を送っている若者達にとっては今の雰囲気が社会の全てであり、それ以外の空気を知らないのである。

よく若いうちに海外に行った方が良いという意見を聞くが、それは何も外国人とのコミュニケーション能力を高めることや、外国の歴史や風習を知り外国語に通じることばかりが重要が故ではない。私は、むしろそれよりも日本とは違う雰囲気や社会の躍動感などを体感することに意義があるのではないかと思う。
もちろん、こうしたことは何も海外に行かなくとも体験することはできる。その体験は旅行であり、あるいは研修であり、知己のない人々との出会いであり、勉強であり、ありとあらゆることから私達は得ることができる。ただ、日本国内を覆う雰囲気にはやはり共通の物があり、そのベースを切り離せないが故に海外に行くことは意味があるのだろう。
単なる観光でも意味がないとは言わないが、できることならその違う空気を外国人や外国社会とのコミュニケーションの過程で体感できれば最も良い。別にそれを修得しなければならないわけではない。その存在を知ることに意味がある。

生きづらいと自らの未来を自らの手によって狭くすることは、決して生産的な話ではない。ところが、今とは異なる何かにぶつかるという行為から逃げる一番の言い訳に、この社会の雰囲気が見事に利用される。それを個人が言っているうちはまだ良いのだが、マスコミがその雰囲気をまるで既定の物のように喧伝し始めると始末に負えない。

今が生きづらい?

いつの時代でも生きづらいし、今は社会も安定しておりチャンスはいくらでも見付けられる時代でもある。確かに、既得権益と資産を持っている老人達は山ほどいるだろうし、ちょっとやそっとでその壁を崩せないかもしれない。何度も、理不尽な思いに囚われることもあるだろう。
それでも、おそらくそのチャレンジをしているときには社会を覆う生きづらさなど鮮明には感じていないのではないか。打ちひしがれたときに、社会の矛盾を痛感するかもしれない。しかし、チャレンジする機会は少なくとも与えられているし、今の日本は一定の層を完全に否定する社会ではない。世界でも最高レベルに開かれている社会だと思う。

もちろん、そう易々と成功など掴めるはずもないのも事実。世の中の一部には確かに天才もあるいは運の良い人もいるだろう。そして、マスコミにも登場するこうした人達の成功を羨ましいと感じるのは普通の感覚だ。ならば、そこにどのように至るかについて現実に考えてみよう。まずは考える。そして、行動を起こす。それで十分だと思う。
その上で、これだけは覚えておきたい。1年や2年で結果など出るはずがない。10年で出れば早いほう。短期的な結果が全てではない。

今の日本社会を覆っている閉塞感。確かに全体で見れば是正すべき様々な社会制度の問題があるだろうし、あるいは社会における不公平感も存在するだろう。
ただ、個人レベルで言えば実はそんなことはあまり関係ない。個人として成功する可能性は間違いなく存在する。ただ、その道を見付けられないだけなのだ。そして、それは今自分が知る以外の可能性を知らないか、あるいは知ろうとしていないことに起因する。
自分の進むべき道を若い頃から見定めて一心不乱にがんばれる人は羨ましいが、そんな人は社会にいくらでもいるわけではない。試行錯誤して、時には目標を変えてがんばる人はいくらでもいる。

だって、企業だってそうではないか。生き残りをかけて様々な業態に変化し続ける。その方向性を誤れば存続すら危うくなるのは事実だが、仮にその企業は解散してもそこで能力を付けた人たちが新たに立ち上がるケースなど枚挙にいとまがない。

世の中を覆う閉塞感、それは実のところチャレンジをしないことを快しとしている人たちの積み重ねで生まれている。高齢者が増えた社会とすればある意味当然でもある。高齢者にとっては新たなチャレンジは容易なことではない(それでもチャレンジする人はいるし、今後は増えていくだろう)。ただ、その雰囲気に陥るのは高齢者達の方がぴったり来るではないか。
若者達は感受性が高く、雰囲気に敏感だ。
ただ、その雰囲気を作り出している大もとは高齢者なのだから、その雰囲気に支配されてしまうのはあまりにもったいないではないか。

そうは言えども、政府などの政策が充実しなければ大部分の若者がチャレンジしにくいというのも真実だろう。ただ、チャレンジしにくいのはシステムの問題としてはあるかもしれないが、気概の問題としてはそんな障害は存在しない。気持ちだけでは何もできないと言われるかもしれないが、気持ちがあれば社会を覆う閉塞感を多少なりとも振り払うことができるだろう。
そもそも既得権益を守る者たちは、守る者であり攻める者ではない。一生懸命今持っている利権を守ろうと画策しているだけでしかない。相対すると嫌で面倒な相手であるのは事実だが、考えてみれば守ることに必死な悲しい相手であり、同時に停滞感を醸し出す存在でもある。だとすれば、そんな存在に振り回されて、作り出される雰囲気に感化されて戦意を失うなんてこんな馬鹿らしいこともない。世の中を形作るのは、必死に守る側ではなくて当たらしいもの作る側なのだ。

今は生きづらい時代ではない。そう言う意識が多くの人に共有されることが今の時代には重要であり、それを知るために世界を知見してくると言うことは意味があるのではないだろうか。
私達は、見て知ることによって次の行動を起こせるのだから。

「今の時代だからこそ、失敗しても当たり前と大胆な行動を取れるのではないか。」