Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

内在する情熱

志の高さは、湧き上がる情熱がなければ成立しない。これは誰が人生の目的を定めたかに大きく依存する。自らの意志を持って、自らの人生の目的を定めた人は強い。一方で、目的や目標を決めきれずに漫然と過ごす人は弱い。それは誰にでもわかることである。しかし、その目的が一定の地位に就くことや一流の大学に入ることであった場合、そこまでの努力には大きなモチベーションとなる。問題は、その次・そしてまた次と目標を決めることができるかどうかであろう。

別に目的が高尚でなければならないわけではない。金持ちになりたい。家族と楽しく暮らしたい。何だって良い。あるいは日本をもっと豊にしたいでも良いのだ。反社会的なことでないならば、その目的や目標が否定されるものではない。
現代日本で最も大きな問題は、この目標や目的を定める人間が減ってしまったことではないかと思う。いや、目標や目的を曖昧なままにして明確に定める人が減ったという方が良い。実のところ曖昧な目標は誰しもが持っている。ただ、目標が曖昧な間はそれを「願望」と言う方がより適切であろう。
願望は受動的であり、目標は能動的である。それ故に、曖昧な願望では人は大きな行動を起こさない。

では、明確な目標を詳細に心に描かなければならないのだろうか。
実を言えばこれも少し違うように思っている。目標自体はいろいろと変化して構わないと思う。むしろ自分を取り巻く環境に応じて変わっていく方が自然である。問題は、その目標を現実に引き寄せるための情熱なのではないだろうか。
人生における目標は一つではない。通常は次々と現れるものであり、あるいは大きな目標は遠くにあるとしても小さな目標も同時に存在して、その小さな目標をクリアしていくことで大きな目標に近い付いていく。

目標が夢でいる間、願望のままである間は、大きな目標は抱いているかもしれないが、そこに至る小さなステップを歩んでいない。それは、願望を実現させるんだという情熱が必ずしも十分ではないからではないかと思う。
むしろ現代社会では、強すぎる情熱は忌避される傾向が結構高い。それを「ガツガツしている」とか「熱すぎる」などと揶揄する向きが多いのは、スマートであることに重きを置きがちな国民性もあるだろうが、むしろ夢を持つことこそが大切だという夢想を重要視する傾向があるためではないかと感じている。
現代社会は夢を持てないという話などもよく聞くが、夢が全くないなどと言うことはあり得ない。実際、ほとんど全ての人が夢はその程度や内容は別にしても抱いている。問題は、その夢が単なる願望から明確な目標へと変わっていないことであり、夢よりも明確な目標を重視するような教育が行われていないことにあるのではないかと思う。個性重視の教育などが一時人気を博したりしてきたが、これなどはまさに実際の目標よりも夢や可能性を重要視している典型ではないかと思うのだ。
繰り返すが、夢を持つことが悪いわけではない。重要なのは、夢を明確な目標へと変えていく方法を学び、そこに情熱を注ぎ込むこと。それが重視されるような社会。それがあってこその個人の成功であり、社会の成長なのではないかと思うのだ。

もちろん、子供のうちから確固たる目標など抱けるとは思わない。だから、目標は変化して良いと思うし、失敗したなら新たな目標を立てればよい。ただ、夢想のままで終始すればそれはあくまで机上の論理に過ぎず、いくら頭で考えても実現するものではない。スマートで知的であっても、夢想は情熱には叶わない。

私達現代日本人が最も失っているのは、情熱であり、情熱を卑下しない考えではないだろうか。

「情熱は暑苦しい。しかし情熱は深い。」