Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

求める自由

私達はどちらかと言えば束縛されるよりは自由を選ぶ。学校では自由の大切さを教わり、人々は普段の自由がない生活を悲しむ。しかし、同時に自由には責任が伴うとも教えられる。この責任とは、自分以外の人に対する義務と考えられる。そんな義務を負うと言うことは結局のところ自由と言えるのかはなかなか難しい。実のところを言えば、何かをする自由は同時に別の面での不自由さと密接に繋がっているとも言えなくはない。
これらのことについては、かつて「自由と孤独(http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20111010/1318177989/)」で触れた。
完全な自由は現状の秩序からは解放されるが、それ故に全ての規範を自分で作り上げなければならない。そこに大きな義務もしくは責任が存在している。実は自由を求める者たちはそこまでは思いを馳せていない。単に自由を創造して渇望しているに過ぎないのだ。

だとすれば、私達の求めている自由とは本当はどこにあるのであろうか。
私はこう考える。私達が求めるべき自由は制限から解き放たれる瞬間であって、自由が継続することではない。すなわち、自由とは変化の瞬間そのものにあって定常ではないのである。

私達はよく達成感を喜びと感じる。これも、自ら課した限界を超えるあるいは目標に到達することによるものだが、その限界や目標は自らを封じ込める束縛と考えればわかりやすい。達成感とはそれから逃れる瞬間に得るものであり、束縛から自由になる瞬間である。
私達が求める自由とは、実のところこの瞬間を感じることではないかと思うのだ。

競技などでは、この達成感を感じた後に新たな目標を再び設定する。目標を達成した後にその状態をいつまでも楽しめるものではない。目指しているのはあくまで瞬間であるからだ。そして達成感は、超えるべき制限が高く厳しいほど大きくなる。自由を得たものがそのまま新たな目標を設定せずに漂流すれば、為すべきをわからずに無為な時を過ごしてしまう。その自由な時間は果たして楽しいのであろうか。楽ではあるかもしれないが、楽しいと言い切れるほど確固たる何かがあるようには思えない。
完全な自由は大きな責任がかかるものだと最初に書いたが、結果的にはその責任とは自分に新たに嵌める枠であり、制限であり、束縛である。唯一違うとすれば、それは人から与えられたものではなく、自ら設定するそれであると言うことであろう。

すなわち、自由とは自らに課す制限を自らが決定することであると考えることもできる。そして、設定しながら解放される瞬間を夢見るわけだ。考えてみれば無駄な話にも思えなくはないが、その無駄さ加減が人が生きていくために必要なことなのであろう。

「自由とは自らの枠を自分で決めることであるが、自由を得るものには相応の枠を設定する義務がつきまとう。」