Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

能力があればいつか成功する

陽の目を見ない人が世の中には溢れている。いや、陽の目を見るとはその他大多数より突出しているということであり、結果的には陽の目を見ない人があふれるのは当たり前のことである。ただ、陽の目を見ない人が能力がないのかと言えばそれは違う。陽の目を見ない人の中でも一部の陽の目を見ている人以上の能力を保有している人は少なからず存在する。
では、陽の目を見る人と見ない人では何が異なるのであろうか。運と言ってしまえばそれまでなのだが、陽の目を見る人は自分の専門以外にもセールスなどについての多大な努力を払っている人が多い。そのことを卑下するような風潮がないわけではないが、陽の目を見ると言うことを価値の目標に置くとすればそれは必要で且つ重要な努力であると私は思う。

例えば、「成功する」と聞けばそれは社会から一定の評価を受けることだと考えるのは一般的であろう。この一定の評価は誰から与えられ、何によって証明されるのだろうか。
これは多くの場合2つの観点から見ることが出来る。
一つは、社会における一定の地位にある存在から評価され、もう一つは代償として経済的成功により証明されるという考え方である。その他大勢に支持されるというケースが全くないとは言わないが、通常そのようなケースは多くはない。何らかの賞を受けるにしても、あるいはピックアップされるにしても、社会における一定の地位にある個人若しくは団体に選定され評価されなければ世に出ることがないのである。

逆に言えば、世に出るためには何らかの形で選ばれるというルートをたどる。
その選定者は、ひょっとすればマスコミかもしれないし、特定の個人かもしれない。その選定は公明正大かもしれないが、逆に言えば特定の恣意があるかもしれない。
そこに思惑があるかどうかは別にして、まず世の中に出るための最初の関門がこの選定である。
この選定を経ることにより初めて広く社会に知らしめられることになる。そして、この関門の価値が高ければ高いほど広く広報されることになりやすい。
その次に、社会がその能力の持続性について評価することになる。価値が低いものは、いくら選定されても社会的に継続して評価はされず、価値があるものは選定時のプッシュが弱くても支持され続ける。すなわち、そこで初めて創作であるとか技術であるとかあるいは能力が社会的に評価されるという栄誉に浴するのだ。

陽の目を見ないとは、多くの場合まず最初の関門を超えていないということがある。
それは、純粋に技術力や創作力・あるいは能力とは異なる面が支配している部分もあるかもしれない。しかし、社会的な成功を得ることを目的とするのであれば避けて通ることはできないと考えた方が良いだろう。
純粋な能力の比較ではないという批判もあろうが、それが社会の真実でもある。
私が知る限りその方法はいろいろではあるものの、成功を得るにはそこに至る努力が存在する。それは、専門の技術や能力などとは別の部分が介在する。そして、その努力も惜しまない者が先に進むケースが多い。

能力に自信ある者たちは常にこう言いがちだ。
「力はあるのに陽の目を見ない。」
その理由ははっきりとしている。
陽の目を見るための第一関門をくぐり抜けるための努力がまだ不足しているのである。
陽の目を見るためには、その前提条件をクリアしなければならない。そして多くの場合には、そこには目が行っていなかったり、あるいはくだらないこととして顧みられていない。

確かにコツコツと実績を積み重ねることにより最終的に評価される人は存在する。
それはそれで素晴らしいことだと思うし、下手な営業などせずに続けることに賞賛は送りたい。
しかし、一方で陽の目を見るためにあらゆる努力をする人たちを貶める気には私はならない。それも、やはり賞賛に値する努力だと思う。そして何より陽の目を見るという舞台に立った以上、そこに至った方法が何であったとしても社会から評価されることになる。そこで一定の地位を保ち続けるということは、陽の目を見なくとも継続することと比べて容易な道のりではないのだと思う。
もちろん、そのために本来の技術や創作能力を捨ててあがくケースもあるだろう。一時的にはそれで地位を維持できたとしてもそれを維持し続けることができるとは限らない。

陽の目を見ないものの、素晴らしい技術や能力を有する人は世の中にいくらでも存在する。
それは間違いなき事実である。経済的には、陽の目を見た人との間には歴然とした差異があるかもしれない。
成功を経済的なものとするならば、そこには明確な違いがあることになる。
ただ、成功を経済的なもの以外にも見出すことができるとすれば、陽の目を見るということに拘る意味はなくなる。
突き詰めて言えば、成功を誰が納得するかである。
自分自身の評価で納得するのであれば、他者に評価されなくとも関係はない。

すなわち、能力があればいつかは必ず成功すると誰もが言えるであろう。

「成功とは何か。満足が自分自身で完結し得るかどうかにかかっている。」