Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

倫理無き自由競争の果て

自由競争は頑張った人が報われる。頑張った人が報われるのは原則として正しいことである。
私もまさにその通りだと思う。ただ、それを無制限に認めた場合には社会の格差は固定される。
その格差が固定された社会ははたして住みやすい社会なのだろうか?
その疑問があるからこそ、民主主義においては法律などを用いて格差をなるべく解消する方向で手当てするのもまた原則である。

個別に言えば、例えばまず労働報酬について考えてみよう。
人はそれぞれ本当に労働内容に値する報酬を得ているのか?・・・なんて、疑問を呈すれば大部分の人は見合わないと考えているに違いない。まあ、人とは我田引水的なものであるから、客観的に労働内容以上の報酬を得ている人であっても、それは自分の能力に見合っていると考えるだろうし、報酬が労働内容以下だと考える人がほとんどなのはどんな社会においても変わることはあるまい。
しかし、労働報酬と仕事の内容は必ずしもバランスしていないのも事実だと思う。
大きな功績を残しても報酬的には評価されない人もいれば、世渡りのうまさで大きな報酬を得る人もいる。それも能力の内だと言ってしまえば全てを肯定しなければならなくなるが、それが社会的に受け入れられないのもわかるであろう。

もう少し深く考えてみれば、労働内容の価値に考えが及ぶ。
仮に仕事内容の高度化や専門性が的確に評価されるという前提に立ったとして、その上で報酬について考えてみる。
労働が高度化したとすれば、それに応じて報酬はべき乗で上昇するのか?あるいは平方根で上昇するのか?
例えば、累進課税はそれを平方根的に抑える役割を果たしている。

現実には、あらゆる労働が平等だとは思わない。
しかし、金融操作による報酬が妥当だとも思わない。・・・生産を伴わない活動の報酬が、「高すぎる」のは理解しがたい。
あるいは、リスクに応じた報酬という概念も考えられる。
ただ、実際にそのリスクを甘受しているのかと言えば、疑問がかなりある。
リーマンショック後の公的資金を受けた米銀が、すぐに多大なボーナスを復活させようとした。
有能な職員をつなぎ止めるためというのが一つの理由とされたが、失敗を清算しないのであればそれまでの高報酬のつじつまが合わない。

このあたりに来ると、倫理の問題になる。(倫理学wikihttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AB%E7%90%86%E5%AD%A6
ルール上高報酬を受け取れることにしたが、それは倫理的に許されるのか?
そもそも倫理とは道徳のことである。社会を維持するためのあるべき規範とも言える。
これを軽んじるからこそ、法律やルールには従っていたとしても社会的には受け入れられなくなるのだ。

だからこそ、成熟社会においては自由主義より自由かつ倫理主義が求められる。これを仮に「倫理的自由主義」と呼ぶことにしよう。この考えは。貿易においても同じではないかと思う。
単なる自由貿易が繁栄を生むのではない。自由を尊重しながらも、適度な倫理が介在しなければならない。
さて、現在議論されているTPPは倫理の面でどう見えるのであろうか?

私は今の資本主義の行き詰まりを打破するには、この倫理をもっと明確に打ち立てなければならないのではないかと思う。現時点で進行している金融危機は、結局のところ拝金主義と言って良いような金融商品などを用いることによる錬金術的な手法の結果で張るのは間違いない。
そこに倫理はあったのか?
ゼロとは言わないものの、現状のそれではこうした暴走を抑えきれないのだと思う。

資本主義の世界的展開は自由貿易競争により満たされる。そして、多くの企業や資本家はその推進を今も叫んでいる。
しかし、分野は違えどその行き着く先は現状と同じような暴走への道筋ではないか。
そう思えて仕方がない。

「利益の究極は独占である。独占を目指せば、それを許す多くが不幸になる。それを自主的に抑制するのが倫理であろう。」