Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

性善説・性悪説

世の中には、人の本性について2つの考え方が並立して存在している。
それは、性善説性悪説である。
前者は、人の存在はそもそも「善」であり、その善を伸ばすことにより社会をよりよくしていこうとするものである。
後者は、人の存在は基本的に「悪」であって、それを制度や規範により抑え込むからこそ社会秩序が維持できると言った考えとも言える。

現実には人間を一面で語ることなどでるはずもなく、両面を持っていると言うことになるのだろうが、社会の様々なシステムや慣習が性善説に基づいているのか性悪説に基づいているのかを考えてみることはなかなか面白い。
例えば、よく話題になっていた国民総背番号制などは、性善説に立つならば便利で使いやすいシステムと言える。
しかし、性悪説の立場から見れば情報の一元化は、悪用しようとする人に絶好の機会を与えることとなるのも事実であろう。ただ、性善説により推進を考える場合であっても裏社会の不正な資金をあぶり出すという目的も据えられているのを見れば、結果的には性悪説で人の存在をとらえている様にも感じられなくはない。

では、なぜこの両者が様々な場面で揺らぎながら用いられるのであろうか?
その理由は簡単だ。性善説は楽であり、性悪説は面倒くさいのだ。
性善説では人を疑う必要がなくて済む。これは、様々な物事をする上で最も面倒な他人を疑うという行為を回避させてくれる。疑うが故に行わなければならない手間やコストを省いてくれる。
性善説は、効率化と省力化を私達に与えてくれるのだ。

もちろん、性悪説に立てば原則は疑ってかかることになる。
それは、社会に多くの負荷をかける。
一時的に社会問題となるような事件が起こったときには、社会はその分野に関して性悪説に大きく触れる。
だから、いろいろと面倒な取り決め(法律や社会制度に反映される)を行い手続きは複雑化する。
ただ、時間が経過すればその手間が社会に与える負荷がバカにならなく感じられ、徐々に制度は緩められていく。
状況のみから言えば、性悪説から性善説へのシフトである。
もちろん社会的な状況が変わったわけではない。おそらく悪人は同じ程度の割合で存在する。
要するに変わったのは社会全体の価値判断の方である。

性善説を取るのは、何もそれを主義主張として信奉するからではない。
愛に満ちた考え方ではなく、社会システムにかかる負荷(手間やコスト)の影響を考慮した合理的判断だと言えるだろう。
性悪説は危機管理上の対応方策であって、基本的には最悪を考慮する判断手法である。これも、もちろん立派な姿勢の一つであるが、それで全てを通すことはおそらく困難であろう。

ただ、性善説を積極的に採用できるためには一定の環境条件が必要だ。
それは、価値判断が同質であると言うこと。
価値判断が異なれば、一方が問題ないと思う行為が他方にとっては重大な問題となる。
手間をかけない状況で信頼関係が築けなければ、性善説を採用しがたいのである。

例えば、欧州の移民問題などに見られるように異質なままの存在がある国に持ち込まれれば、そこには性善説を持ち込める環境が存在し得ない。建前上は、両者の交流によってお互いの認識を深め合えばいいと言うことではあるが、性善説の前提が社会システムにかかるコストを軽減させることであるため、交流などの手間がかかるという点で実際には相容れない条件になると思う。
結果的に、いくら心では交流を求めたとしてもおそらく性悪説が環境条件として持ち込まれることになる。
移民問題は社会にかかる負荷を増大させる。それが、移民受け入れにより得られる経済的メリットより小さい間はクローズアップされないかもしれないが、経済的メリットが小さくなったときに一気に表面化するのであろう。
欧州でもリーマンショック後に移民問題は一気にクローズアップされた感がある。もちろん、その前から軋轢はあったわけだが、社会としてのメリットが薄れれば当然ながら社会問題化するわけだ。

世の中には、性善説を思想として扱う人が少なからず存在する。その場合は、信じることが善であるという認識になる。話し合って理解し合えば解決できるという考え方だ。
でも、おそらくそうではない。社会システムにかかる負荷が問題なのだ。

「欧州の経験した歴史を事実として客観的に学ぶ必要がある。」