Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

大阪と独裁

大阪市長選と府知事選のダブル選挙が佳境に入ってきた。今週末が投票である。
東京でも、このニュースはTPP問題などと比べても圧倒的に視聴率が取れるらしい。それだけ関心が高いとも言えるし、見方を変えれば劇場型政治の典型だとも言える。
先日は、TVにおける公開討論会を平松氏が忌避したとしてニュースになっていたし、週刊誌などは橋下氏の出自関係をもってキャンペーンを張っているように見えるのは中傷合戦になだれ込んでいる感じすらする。
現状の報道によれば支持率は予想以上に接戦らしい。
選挙前のこの時期、どちらを支持するかを書いてしまえば公職選挙法違反にも抵触しかねないので、あくまで一般論として少々論じてみたい。

私自身は橋下氏が掲げる大阪都構想については、日本全体の機構改革でも行わない限りシンボルとしての意味はあっても、大阪を引っ張り上げられるほどの効果は期待できないと思っている。ただ、それが日本全体を考え直す機会になるのであれば、いろいろな無理もあるとは思うが停滞を続ける大阪の起爆剤としては全く議論に乗らないとは思わない。
しかし、その際には近畿圏独立宣言(日本を連邦国家に変える)くらいのインパクトも必要かもしれない。
求められているのは、着実な赤字減らしではなく停滞した大阪経済をどのようにドラスティックに変えていくのかという点であればの話である。

さて、橋下氏への反対論は主にそのリーダーシップのあり方についてが多い。戦後タブーとされてきた問題点にいろいろと切り込んでいるため、当然権益を侵害される団体などからは強い反対論が噴出する。
教育界、産業界など、ある意味オール野党状態になっているといても良い。なにせ、民主党自民党対立候補である平松氏を応援しているのだ。もちろん当初からそのことは織り込み済みであって、それ故に地域政党である維新の会を興しているのは誰の目にも明かであろう。

そして、平松氏陣営は民主主義社会において独裁的な強権を認めるかどうかを提起している感じがする。もちろん、橋下氏はそれに言及はしていないが、善政を施すのであればある程度の独裁性がないと実行を伴わないと考えているフシがある。
民主主義を絶対的な存在と考えるならば、仮に愚政が行われようとも独裁的な強権を認めるわけにはいかないだろうし、停滞した社会や経済を大きく動かすためにはこれまでよりは多少大きな権力を与えることはやぶさかではないと考える人もいるだろう。

この問題に関しては、民主主義が生まれたときから常について回る事柄である。
ヒトラーは、選挙から生まれた。民主主義が暴走をすれば、結果的に独裁を生む。
それは間違いない事実である。その問題を強く意識する人からすれば、橋下氏の行動は看過し得ないものと見える。
ただ、私が思う最も大きな問題はその民主主義擁護の硬直性ではないかと考えている。

この民主主義における独裁については、SF小説ではあるが田中芳樹氏の「銀河英雄伝説」という作品がわかりやすい。
この小説の中では、徳ある主君による専制君主制と腐敗が横行する民主制のどちらが国民にとって良い政治形態なのかが常に問いかけられている。
もちろん、善政を敷く専制君主制は物事を改革する上ではもっとも効果的な政治形態である。権力が集中しているが故に、いち早く決断したことが実行されるのだ。徳ある統治については古代中国の歴史書などにも詳しいが、これらについてはまた機会があれば触れてみたい。
現代社会で言えば、例えば企業などでも創業者には独裁的な人が多い。その人の持つあるべきビジョンに向けて賢明に突き進む形態だと言えるだろう。同じように、一度傾きかけた企業を再生するケースなどでも、独裁的な指導体制が取られるケースが多い。大胆な改革や、スピードある指揮は、集団体制では成し得ない。著名なところで言えば、先日逝去したスティージョブズなどはその典型と言えるかもしれない。

一方で、安定期や成熟期には独裁的な指揮系統はかえって害になることがある。
それは様々な反感や軋轢を生むこともあり、企業が大きな成長を見せがたい時期において、成果が伴わなければこうした軋轢の方がクローズアップされてしまうためである。
その結果、人心が乱れてトラブルが出やすくなる。もちろん必ずしもそうだとは言えないが、一般的には多くの意見を集約する調和型の指揮系統が望まれることになる。

さて、では今の大阪はどう考えるべきであろうか?
確かに、平松市政において若干の赤字減らしは実現されたと聞く。しかし、ジリジリと大阪の経済が縮小していく状況を変えることはできていないし、あくまで放漫による著しい財政悪化を押しとどめたというレベルだとすれば、市民の期待に十分応えているのかどうかはなかなか判断に悩むところである。
少なくとも私の見立てでは橋下氏は乱世のリーダーであり、平松氏は平時のリーダーだと思う。
残りは、そこに我欲がどれだけ潜んでいるかを見抜くことができるかどうかであろう。
どれだけ混乱の時代に適した人物ではあっても、その目的が自らに向いてしまえば民主主義社会では望まれる存在ではない。

独裁的な権力を手にして大きな改革を行った場合に、最も問題となるのはその当人ではない。
その当人を取り巻く集団に大きな問題が生じるのだと思う。
だから、独裁的な権力集中を一時的に許容したとすれば、考えておくべきは権力の分散である。
このことは以前に書いたような気もするが、独裁者を支える存在が自らの生き残りを図る点が最も畏れるべきことであろう。それ故、狙いを定めた問題に一定の目処を付けた段階で、集中した権力が分散される仕組みを事前に作っておく必要がある。それが曖昧であればずるずると集中された権力が温存されてしまう。
実際、事前に分散させる仕組みを想定していたとしても、権力を温存させるためにあらゆることが行われるであろう。
「まだ解決していない重要な問題がある」
「改革は途上に過ぎない」
「国民に益のあるシステムは存続させるべきだ」
なんて、言葉が並ぶに違いない。それは、独断的だが私心無く改革を進めた当人の意志とは全く異なるものである。
一時的とは言え得た権力の全てを使って、現状維持を図るであろうことは私にも想像できる。

集めた権力を分散するのは、権力を集中させるとき以上に労力が必要になる。

では、それを畏れて地道な改革でお茶を濁すか?
少しずつの改革で、将来的な不安を解消できるのか?
私の意見は今回のエントリでは述べない。

ただ、これからの日本を占う上で目が離せないとは考えている。

「政治における徳というものの重要性を深く考えずにはいられない日々が続いている。」