Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

体罰について

最初に極論を書いておくとすれば、私はどちらかと言えば体罰肯定論者だと思う。
もっとも、では自分の子供に体罰を加えたことがあるかと問われれば、「ない」。
軽く頭をはたく程度のものはあるが、恐怖を与えるほどのそれはしたことがない。
すなわち、体罰など用いずに今まで過ごしてきたわけだ。

しかし、それでも体罰は必要だと個人的には考えている。
もちろん度の過ぎたそれを許容するつもりはない。体罰にも教育的な意味がなければならない。
意味のないそれは単なる暴力であって、パワハラの一種でもあるのだから。

まず体罰が必要と考える一番の理由は、子供は一定の知性を持つまでは野生の動物と同じだと考えているからである。
一部の人々にとっては許されざる発言かもしれないが、子供が純真無垢だというのは見た側の勝手な思い込みに過ぎないのだ。それは、そうであって欲しいという願望も多く含まれた感情に支えられている。
しかし実際には幼い子供は純真無垢ではなく、単に無知や無警戒であるに過ぎない。
その行動を、色眼鏡で見ているのは大人達である。

子供は、当然ながら複雑な社会の仕組みなど知るはずもない。だから、ルールに縛られない行動を取るのは当然である。
それを許容できるのは実害を与えないレベルの年齢までであって、それ以上に至れば当然社会のルールを少しずつ教え込まなければならない。
子供と言っても千差万別であって、単に言って聞かせればそれを理解できる子供もいれば、いくら言いつけてもルールを守れない子供も少なくない。それを根気よく言い聞かせるのも一つの方法ではあろうが、痛みによりわからせる方法も効果的である。
例えば、ストーブを危険なものとわからせるために、わざと軽く熱さを感じさせる。
これは体罰ではないが、苦痛により危険回避の術を教えるものである。

さて、体罰についても同じような考え方は成立する。
痛みを持って、してはいけないことを単に頭の中だけではなく身体で覚えると言うことだ。
子供のうちは、既に鈍感になった大人と異なり全身が敏感である。
身体の痛みを伴って覚えることは、記憶としては非常に効率的な方法なのだ。
ルールを守ると言うことも、やや婉曲的ではあるものの社会における危険回避の術の一つと言える。
だから、記憶方法として体罰は有効な手法であることに違いはない。

では、なぜ体罰禁止が強く叫ばれるのか。
それは誰もが知っていることであろうが、罰ではなく制裁となっているからであろう。
痛みを伴って知るべきことを記憶させるのではなく、痛みを与えること自体が目的となってしまった時、それは体罰ではなく暴力になってしまう。特に、大人がその立場を利用して行えばなおさらである。

これは何も学校生活などのみの問題ではない。
家庭でも同じようなことは頻繁に生じている。
子供を叱るのではなく、子供に対して怒る親の場合である。
「叱る」という言葉は、明確な目的があってそれを子供に守らせるために指導する行為を意味する。
それに対して、「怒る」とは当初こそ教育的に考えているのだろうが、いつの間にかそれが大人の感情の押しつけになっているケースを言う。そして、これがエスカレートすれば虐待にまで至る。
「怒る」という行為は、教育を言い訳にした感情の押しつけでしかない。
教育的には、叱る側は冷静でなければならないのだ。

ところが、この「叱る」と「怒る」の境界線は曖昧である。
本人も気づかないし、ましてや周囲で見ているものには判別が容易に付かない。
それ故に、指導する側の資質に大きく依存する。
あるいはその境界線ぎりぎりを追求することにより大きな成果を得られる場合もあるだろう。
「厳しい指導」がいつの時代にも無くならないのは、その成果に対する渇望でもある。

ただ、それでも一つ言えることがある。
指導を受ける側の子供達の多くは、それが感情の押しつけなのか熱心な指導なのかをある程度察知するものである。
もちろん厳しさに不平不満を言うことはあるだろうが、それでもそこに愛情があるかどうかは長く接すればするほど見えてくるものだ。
それでもソリが合わない場合もないわけではないだろうが、厳しくも自分たちのことを考えてくれた教師ほどあとまで記憶しているものではないかと思うのだ。

「怖いだけの先生は記憶に残らないが、怖さと優しさの同居した恩師は残りやすい。飴と鞭とは言い得て妙である。」