Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

プロ野球と親父の権威

近年プロ野球の視聴率が減少著しいそうである。
一部には、そろそろ低迷も底に来たとの噂もあるものの、過去の栄光を知るもの達から考えると寂しい限りであることに変わりはない。
自分自身のことで考えても、生まれたとき既に阪神ファンであった私にしても近頃はとんとテレビ中継を見てはいない。
一応気にして、ネットで結果を見る程度はするもののその程度で終わりである。
そういう意味で言えば、やはりプロ野球のネット中継が流行らないというのも頷ける。

では、野球全体の人気が凋落しているかと言えば必ずしもそうではない。
プロサッカーリーグが無かった時代でも、中学高校の運動部の花形は、野球部とサッカー部であった。
近頃はサッカーを目指す子供が増えたとの話も聞くが、だからと言って野球部に人気が無くなったわけでも無かろう。
高校野球は十分な人気を維持しているし、漫画の世界でも野球漫画の人気が無いわけでもない。
だとすれば、純粋にプロ野球中継の人気が無くなったと言うことがあるのだろう。
いや、福岡対中日というややマイナーなそれでも日本シリーズ終戦はかなりの視聴率を上げた。
関東地区で瞬間最大ではあるものの35.8%は立派な数字に違いない。
この数字を見る限りまだまだ健闘していると言えるだろう。

私が子供の頃は、まず父親が夕方には仕事を終えて晩酌をしながらプロ野球中継を見るのが日常であった。
家族の中で、父親にチャンネルの選択権があったのだ。
曜日によっては、プロ野球中継が終了してからそのまま映画放送である。引き続き父親のチャンネル権は続く。
そんなこんなで、親父達の権利によってプロ野球中継は支えられて来た感じがする。
父親の横には子供達が酒の肴をついばもうと待ち構えながら、一緒になってテレビ観戦である。
そうして、父親と子供による家に一台しかないテレビ占拠状態は確立された。

時代は進み、テレビなど家に数台ある時代が到来し、リビングは母親と娘が占拠する。
チャンネル選択権は、もはや父親にはない。
息子は部屋に籠もってパソコン三昧。
さて、誰がプロ野球中継を見るのだろうか?

娯楽が少なかった時代は、少ない娯楽に皆が殺到した。
街頭テレビのプロレスに夢中になる時代も遠い昔の話である。
プロレスは、一部のマニアックな競技となり今やテレビ中継もあまり見かけない。
その後取り上げられるようになった各種格闘技も、それほど長い寿命を得ることはできなかった。
盛者必衰、諸行無常、と言うのはたやすいものの、娯楽は移り変わる。

父親の家庭内における権威の失墜と同じように、プロ野球の人気も翳りが見える。
いや、社会において絶対的なものの権威が剥落しつつあるのであろう。
かつての花形企業も多大なリストラを行い、あこがれの職業であったスチュワーデス(今はCAだが)は今やアルバイトに近い状態である。
淘汰されていく古い時代の企業に変わる新しい企業はいくつか現れるものの、かつての時代に見られたような権威と力強さはない。時代の変化を捉えるしなやかさはあるかもしれないが、絶対的な権威が感じられないように思える。

絶対的な権威は、少し前までは若者にとっての最大の敵であった。
もちろん、マスコミにとっても。
それらが消えつつある現代において、絶対的な権威を懐かしむ感情は単なる懐古趣味なのだろうか。
自由であること、平等であること、それらのすばらしさは私も認める。
それを放棄したいとは思わない。
しかし、同時に絶対的な権威というものがなくなりつつある現代が、それと同時に何かを失っているようにも思える。
それは、寄り添うための芯ではないだろうか。

家族におけるそれかもしれないし、企業におけるそれかもしれない。
政治におけるそれでもあり、国家におけるそれでもある。

プロ野球の人気の低迷を見るにつけこうした考えを巡らせてしまうのは、現在の軽くてよそよそしい関係性が気になっているかもしれない。

「それでも最高のプレーはいつでも人々を惹きつける。そこに虚飾は必要ない。」