Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

自由と孤独

人は自由を求め、民主主義は自由を認める。
自由は責任を伴うが、それが強調されることは少ない。

学校においても社会においても原則的に自由が許容れているものの、現実には自分が思うとおりに振る舞えるわけではない。そこには規範が存在し、実質的に規範の前では自由は制限される。それは、絶対的な自由の束縛ではないものの、社会の一員として生きていく以上無視できるものではない。
そんな生活の中で、私たちは自由を保障されているにも関わらず、自由を渇望する。

そんなにほしい自由であれば、何ものを望むよりもまず手に入れればよいはずなのだが、それが困難なのを誰もが知っている。自由には責任が伴うのである。責任のことを軽く考え羽目を外す若者は少なくないが、それがいつまでも許されるわけでもない。それは、自らの行為の責任を果たすことができないからである。

自由でいると言うことは責任を伴うと書いてきたが、私は少し視点を変えて考えてみたい。
それは、自らに対する責任を人に任せることができなくなると言うことである。
自由がない、すなわち社会のシステムに縛られると言うことは、自らの責任を代わりに負担してくれる存在がいると言うことでもあるのだ。それが、家族であり村であり、政府であり国家である。

本来の自由を得たとき、同時に課せられる大きな責任の多くの部分を社会が共同負担しているのである。その責任を委譲している分、社会に所属するもの達は自由を失い規律に縛られる。典型は法律であるが、法律や条例以外にも種々の社会規範やいろいろな分野の集団ごとの様々なルールが存在している。

子供のうちは、家庭や学校という縛りが存在する。そこには、数々の守らなければならないルールがある。もちろんこれらのルールは子供達の自由を大きく阻害するのだが、他方で子供達の子供達が負うべき責任をルールに置き換えて、責任を軽くしている。
論点はルールを守ったかどうかである。逆にルールを守っていれば、責任の全てを回避できなくとも大部分は免除される。このルールは法律そのものではないが、仮に法律と置き換えればわかりやすい。法治国家である日本においては、善行をしても法に触れれば罰せられるし悪行と見えることをしても法に触れなければ罰せられない。
だからこそ、ルールの範囲外に身を置くことを決めたならば、どのようなことをしたとしても全ての結果に責任を負わなければならないのは当然のことである。

このようにルールで縛る理由は明確だ。
それが社会を営む上で効率的だからである。そしてルールができた当時はそれなりに公平であることもあろう。
ただ、効率を追い求めているため細部においては当然のことながら歪みが生じる。また、時間が経てば社会のシステムに変化も生じ、不公平感が増大していく。
人々はその歪みを捉えて社会に対する不平を訴える。その歪みがあるから、ルールから逃れたいと切望する。
しかし、真の意味でルールからの逸脱を認識するものは多くない。
多くの場合は、ルールに対する軽い不平不満を愚痴っているに過ぎないのである。
ルールを無くせとは言っていない。軽微なルール変更を訴えている。

もちろん社会の歪みを放置して良いわけではなく、微調整は常々必要であるのは間違いない。
社会をよりよくするためには、効率化をほんの少し緩めて細微な規制を作り上げることがなされる。
それが生み出す問題は、多くの不満を聞き入れ続けると効率化を求めるために作り上げたシステムが複雑になり、そこで別の不公平が生まれる。
結局、規制により社会を縛っている以上どこかに不公平は出続けるのだ。それをこまめに細微化したり単純化したりを繰り返して、不公平感の解消をし続けなければならないのだと思う。

だから、不平不満としての自由は本当の意味での自由ではない。
繰り返しになるが、ルール変更を謳っている。あるいは、ルールの緩い分野への移動なのだ。
真の意味での自由は、ルールを逸脱するのではなくルールに囚われない思考を行う自由を得ることではないか。
それは、可能性としては誰にもできるはずではあるが、実質的には誰にもできない。
ルールを取り払うと言うことは、ルールに縛られた人たちとは明らかに考え方が変わることでもある。
だから、多くの場合は社会的には受け入れられないし、しかもその結果である社会からの批判や反発自体を自らの責任として甘受しなければならない。
おそらく、自由の先にあるのは孤独なのだと思う。

さて、社会制度的なイメージで語ってきたが、これは技術開発や芸術の世界でもおそらく同じであろう。
自由とは自分なりの新しいルールを作り上げられる人の特権である。
その部分を切り取ってみればおそらく非常に素晴らしいことに見えるであろう。
しかし、その自由には多くの抵抗が待ち受けており、そして孤独である。

さて、日本の教育では個性を伸ばすなどと、良い語幹の言葉が数多く用いられている。
集団の中で僅かにひかる程度の個性であればおそらく問題あるまい。
しかし、自分の道を造って切り開いていくとき、個性は孤独を引き寄せる。
個性豊かで自由な発想の国を作り上げていくとすれば、その孤独を少しでも和らげられるような仲間やサポートが少しでも得られるようなシステムになっていて欲しい。

その上で、多くの人が結局ルールを守るのはその方が楽に生きられるからであり、それはそれで一つの幸せなのだろうとも思う。

「自由とは求めるものではない。獲得し、積み上げていくものなのだ。」