Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

得てして事実は希望や立場により歪められる

人生は一瞬一瞬の決断の積み重ねである。
私達は、小さなものから大きなものまで、至る所で様々な重要度の決断を繰り返している。
それは、昼食に何を食べるかから、いつプロポーズをするかまで多岐に及ぶ。
私達は、常に最善の決断を行いたいと希望しているが、残念ながら最善のそれを取れるケースはそれほど多くはない。もちろん、重大な決断でなければ被る損失も大したものではない。僅かに注文した料理に不満があったとしてもそうそう後まで引くものでもないものだ。ついでに後で話のネタにでもすれば不満も和らぐであろう。

しかし、それが自らの将来を決定づける決断であれば軽く扱えるものでもない。
そこは慎重にも慎重を重ねて十分検討した上での決断が求められる。
検討のためには、なるべく客観的な現状認識が不可欠である。要するに、ありのままの事実をなるべく漏れなくきちんと認識すると言うことである。
ところが、往々にしてこの現状認識というものが難しい。
事実が自らの希望により歪められてしまうのである。
「こうあって欲しい」という希望が、事実をそれに近づける。
特に思いが強ければ強いほどその傾向が高まっていく。
例えば、極論になるがストーカーの意識などはまさにその典型であろう。
確かにきっかけとなる接触という事実はあった。しかし、その後は妄想というか自らの希望が事実を大きく改変させてしまう。本人にとってはそれは事実なのだろうが、もはや他者からは妄想としてしか捉えられない。

こうした現象は何も個人の場合に限らない。
社会の構成要因たる種々のグループにおいても、企業においても、そして国家においても起こりうる。
集団におけるそれは、個人の場合以上に希望が大きく判断を左右する傾向にあるように感じている。

例えば、マスコミの場合もそうした傾向はよく見て取れる。
一般に朝日新聞毎日新聞は、5大新聞のうちで民主党に擁護的である。
特に、毎日新聞朝日新聞以上にその傾向が強い。
もちろん、民主主義国家である日本においては多彩な意見があることは当然大きな意味があるし、異なる意見を述べることができない社会を目指すべきではない。だから、朝日新聞毎日新聞が単純にその傾向を持って非難されるべきものではない。

ただ、中立を標榜するマスコミではあっても当然人間が関わる以上、完全な中立はあり得ない。
長年続いた自民党政権の打倒は、権力に抗う存在としての本能のようなものであったことは想像に難くない。
それ故、民主党政権は自らが生み出したという意識は強いであろう。
実際記事の中にもそうした表現はいくつか見られる。
それ故、民主党政権がどれだけ問題ある結果を残しても何とか擁護しようと労を惜しまない。
もちろん事実は認識しているものの、願望が本来報道すべき事実を多少なりとも変えてしまっている。

国家の場合で言えば、韓国の状況が非常にわかりやすい。
歴史的には、韓国が自主独立していた時期はそれほど長くなく、基本的には中国大陸に存在する大国の属国としての時期が長い。また、日本に併合されたのは事実であるが、その時期に人口は増加し、食糧生産が増加したという統計的事実もある。
しかし、そのことは彼らのプライドが認めさせない。
結果的に、日本は絶対悪として位置づけられ続ける。
果たして、客観的な事実を見ればどうなのか?


では、個人と組織ではどちらの方がより事実を歪めやすいのか?
事実を歪める理由には以下の2つの要因が関係する。
・希望
・立場
希望が事実を歪めることについてはこれまで触れてきたが、立場も事実を歪める。
この立場による事実の改変は、個人の場合よりも組織の方が大きくなりやすい。
逆に希望がストレートの影響するのは個人の場合であろう。

立場というのは、それまでの行動が事実をねじ曲げざるを得ない状況に追い込まれることである。
それは往々にして、何らかの問題が発生した場合に表面化する。
先ほどの韓国の例などでも、反日教育が今では国の政策まで拘束してしまっている。

さて、集団の方が個人よりもトータルの事実改変が著しいのかと言えば、実際にはなかなかそれが真理とは言いきれない。集団の場合の方がその傾向が高いのは感じるところではあるものの、それは個人の資質や集団の特性に大きく左右される。

ただ、希望によるそれはある意味曖昧で移ろいやすいものでもある。理性により、その意味のなさを理解する可能性は低くない。しかし、立場によるそれは容易に改変できない。それは、過去の自己否定につながるからである。
そして、実のところ社会的にはそれが一番の問題でもある。

誰もが事実を知りながら、過去から積み上げてきた立場がその事実を否定する。
馬鹿げた話ではあるが、それがまかり通るのも社会の一面である。

「絶対の真実は存在するかもしれない。しかし、人には真実を立体的に見ることは出来ない。だから、真実を右から見るのと左から見るのは異なる結果となる。」