Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

不幸論

人類の思想的進歩は、不幸によりもたらされたと言えば、言い過ぎだろうか?
神は、不幸が生み出した存在であり、人々の争いは一部の不幸から導き出されることもある。

世の中の多くの人に聞けば、おそらく自らを不幸だと思っている人は多い。
もちろん、建前として自らの不幸を否定する人もいるだろうが、本音の部分で言えばどうだろう?

1年ほど前、当時の菅首相最小不幸社会を作ると言った。
でも、不幸とは絶対的指標だろうか?
基本的には主観的でかつだが相対的な指標であると私は考える。

大金持ちでも自らを不幸だと思っている人はいるだろう。
周りからは不幸だと囁かれながらも、自分は不幸などとは思わない人もいるだろう。
軽口では自らの不幸を嘆けても、本気でそれができない人もいるだろう。

最終的な不幸とは、本人の気持ちの中にしかない。
それは他人が評価することも出来ないし、他人が哀れむことも出来ない。
不幸とは、自らが定める立場なのである。

それでも、社会において相対的な意味で言えば不幸は本人以外の意識にもやはり存在する。
例えば、重い病気に罹った人。
突然の暴力に苛まれる人。
偶然の災害に巻き込まれる人。
突然のリストラに遭う人。

他人から見ればやはり不幸だろうと想像できる。
不幸を見つめる客観的な視線も社会には必要なのだろう。

人の人生を全て不幸ということはあり得ないだろうし、ずっと幸福というのもやや偽善的すぎる感じがする。
多くの人にとって人生は、おそらく幸福と言えば幸福だし、不幸と言えば不幸なんだろう。
良い面を見れば幸福だし、悪い面を見れば不幸でもある。
その悪い面を取り上げて考えれば人生は不幸だろうし、良い面に光を当てればささやかながらも幸福を感じられる。

結局の所、不幸は自分の気持ち次第なのだ。自らの過去のどこに光を当てるのか?
少なくとも普通の生活が出来ていれば、生きていくという側面のみで見れば不幸ではない。
それを判断する上の比較対象は一般社会であり、結局周りを見回している。

家族も、いろいろあるが何とかやっている。家庭内暴力もなければ、子供もぐれてはいない。
喧嘩はあるけど、家庭が崩壊するほどでもない。
それは、幸福と言えばその通り。
でもそれは世間一般との比較を通しての話。

家庭崩壊で、まともな生活が送れない。
相対的に見ればおそらく不幸な家庭である。
しかし、不幸な出来事が多くとも一部の良い出来事に焦点を当てれば、そこを持って幸福を感じることは出来るのだ。もちろんレトリックの話である。人間はそう容易には割り切れまい。

最初の方で、不幸は本人の気持ちの中にしかないと言った。
ところが、実際には自分自身の考え方は多くの場合社会を通じて構成される。
結果として、社会通念が不幸の基準を決めてしまう。

すると、不幸は平均的社会生活と比較してのマイナス分によって、成立すると言うことか。
あるいは、自らの頭の中にある理想と比較してのマイナスか。

何が言いたいのかって?
結果的に最小不幸などと言うものは存在し得ないと言いたいわけだ。
社会の平均値からの不幸を言うのであれば、社会が成長しようが衰退しようが同じように存在する。それは、絶対的価値ではないからだ。

もし、その意味での不幸を無くそうと言えば、それは社会のフラット化。
つまり、共産主義社会と何も変わらない。
皆が同等。皆が同じ。
それを悪平等というのではなかっただろうか?
かつてソ連を含むいくつかの国での社会実験を経て失敗したものではないか?
似たような議論として、ベーシックインカムといった話も登場している。
誰にでも最低の生活をお金で保証しようというのである。
最低限の生活が保証されれば不幸ではなくなるのか?
そんなことはない。
経済的な困窮は確かに不幸を招きくことも多くあるだろう。
しかし、経済的困窮は不幸の絶対条件ではない。

極言になるだろうが、おそらく不幸はそれに魅入られたものに訪れる。
不幸な事象は、人の関与できることではない。
病気も事故も、あるいはリストラも。
しかし、それを不幸であると固定化するのは自らである。

だから、人が不幸になるのは最終的には不幸な自分を自らが受け入れるからなんだと思う。
だとすれば、政治や行政が不幸な人を救おうと考えても、それはあまり意味がないのかもしれない。
いや、不幸な事象に対するケアは重要であり大いに意味がある。
しかし、不幸そのものを無くしたり減じたりすることはできないのであろう。

他方、幸福を与えることも同様である。
幸福は不幸の裏返しであり、幸福も同様にそれを望み得ようとするものに訪れる。
政治や行政が出来るのはそのための要因を与える手助けをすることのみである。

ただ、私はその方向性に違いを感じる。
最大幸福を追求することが、最小不幸の追求の対極にあるとすれば、少なくとも後ろ向きではない気持ちが人の心を満たすことが出来る。能動的な積極的な動きにつながる。

最小不幸を持ち出す気持ちは確かにわからないでもない。
それは日本の成長に限界を感じているからであろう。
人口減少、世界における地位の下落。
でも、幸福の価値は経済的なものだけではないはずである。
国を誇りに思う心。
日々の楽しい生活。
幸福は心の中に芽生えるものである。
そして、幸福はネガティブな思考ではなくポジティブな思考の中に生まれる。
だとすれば、成熟した国家として最大幸福を目指す施策を求めるべきだろう。

ただし、幸福は快適と同じではない。
楽が出来る社会が幸福ではないのだ。
経済的な豊かさがそれとは限らない。

「何もすることがないことが最大の不幸である。」