Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

敢えて脱原発に異を唱える

現状においては、原発は国民の敵というような位置づけにされてしまった。私個人としては、別に原発を推進したいとも思わないが、同時に無下に否定するのも違和感がある。結果として、日本という国に最も貢献できるのはどういう電力政策なのかということでしかない。
その検討の中で、原発の優先順位が下がれば反原発脱原発などと言うムーブメントなどなくても原発自然淘汰される。

その上で、近頃起こっている論議について少し考えてみたい。

まずは、原発の経済性について。
原発推進派の論拠は原発は安価だというものであり、一方で反原発派の意見は実は原発は高いのだという。お互いにいいとこ取りしているのは、見ていて我田引水的だなと感じるだけだ。
その実態を正確に私が掴むことが出来るわけではないが、それなりに確からしいと思える評価を参照することは出来る。

これについては、立命館大学の大島教授の報告が詳細かつ理解しやすく感じた。
http://eco.nikkeibp.co.jp/article/report/20110608/106639/
http://www.greenaction-japan.org/internal/101101_oshima.pdf
この資料によれば、揚水発電まで含めた原発の発電コストは2000年代では10.11円/kWh、火力発電による発電コストは9.02円/kWhとしている。原発の方が10%ほど高いことになる。
なお、ここには地元対策費や再処理費用に加えて、政府の支出まで含められている。

もちろん、これが全てとは言えないかもしれないが、この資料より10%ほど原発の方が高いのだと言うことはイメージできる。
ただ、別の要因としては以下のようなものが考えられる。
原発は、地元対策費なども含めて初期投資(イニシャルコスト)が高く、ランニングコストは比較的安い。火力発電所は、イニシャルコストは原発よりも安くランニングコスト原発よりも高い。
だから、長く使えば使うほど原発の方がコスト面で有利になるという仕組みがある。

福島原発などの寿命を延ばし延ばしやって生きた最大の理由はおそらくそこにあるのだろう。
仮に原発について30年の償却期間を想定していたとすれば、それを超えれば圧倒的に利益が積み上がるというわけだ。
ただ、その代償が安全率の低下であっては意味がないのも事実である。儲けに目がくらんだと言われても仕方がない。

さて話を戻すが、経済性で火力と10%程度の違いであれば経済上原発は全く議論に乗らないというわけではない。エネルギー供給は一部の供給を絶たれた場合を考えて、多面的に展開させるのが普通であって、コストが倍もかかるのであればともかく、そうでなければ選択肢の一つとしては上がることになる。

すなわち、経済性からは全く議論にならない発電システムではない。

もっとも、上記検討においては今回の原発事故による補償は含めていない。それを含めた場合には当然のことだが原発の発電コストはさらに高いものとなる。
また、放射性廃棄物の最終処理についても現状では方法が決まっていない。日本の場合には、日本海溝への投棄というかなり効果的な方法があるが、現状では海中投棄は条約によりできない(もちろん、それは日本海溝のような特殊な場所を想定しているものではない)。

さて、原発事故は既に起きてしまった。
そのことは取り消すことが出来ない。とすれば、これを無視した評価は意味がないと言える。
では、この事故による損失をどの程度の期間で償却すると考えれば妥当なのだろうか?

今回の災害は1000年に一度の大災害だと言われている。もっとも、今後も東海沖や南海沖地震などの可能性は残るので数百年に一度の災害という方が正しいと思う。
仮にそうであれば、その償却は100年かけて行っても良いとも言える。10兆円の損害が生じても、100年かければ年間1000億円だ。これは、電力トータルの費用体系から言えば大きなものではない。

現状での脱原発・反原発議論において私が最も疑問に感じているのは、1000年に一度の大災害は確かに一つの被害としては大きいが、確率は著しく低い。一方で、社会問題としては分散された被害が生じているものは非常に多い。こちらは、1件あたりは小さな被害だが累積すると巨大なものである。しかも、毎年至る所で生じている。
この二つに差異があるのか?
総量としては変わらないか、あるいは小さな問題の累積の方が逆に大きい。交通事故死が年間5000人として、一人あたりの補償費用が5000万円としよう。それだけで年間2500億円の損失が生じている。

確かに、原発事故のインパクトは大きい。
しかし、逆に言えば百年に一度程度の地震では壊れないと言うことを今回の結果は示したのではないか?
そうも考えられると思う。

だからといって、国民の総意が脱原発に流れている以上、国の方針がそれに従うのは当然である。問題は、脱原発を進めるとしてもそれにより国に大きな不利益を与えるとすれば、その評価が妥当なのかが問われなければならない。

現状においては、脱原発を進める上で代替発電として最も有望なのはLNG火力である(もっとも発電単価が安い)。脱原発を埋め合わせるのはあくまでこうした発電を進めることであり、その議論無しに節電などの経済縮小議論を当然とするのは私には理解できない。

確かに、今回の原発事故が私達に与えた心理的ショックは大きい。
そして将来の被害を想像するのは困難である。
しかし、将来の被害が曖昧だからと言って、全てを否定する論議は一種の感情全体主義に感じられる。

「国民には流行と同様に敵が必要である。そして今、誰もが標的にされることを畏れるような時代が来ているとすれば、それは学校におけるいじめと何ら変わりはない。」