Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

愚痴の効用

基本的に、愚痴とは憂さ晴らしである。
自らが問題を抱えていて、それを自らの力ではどうしようもできないと考えている。
だから、愚痴を言うことでその葛藤を少しでも解消しようという行動だ。

ただ、自ら解決できない。。。はずの問題も実は2つのパターンに分類される。
それは、解決しようと努力しても不可能な問題と、解決する気が最初から無いものである。

愚痴を聞く側からしても、前者は聞く価値があるが、後者にはそれがない。
前者は励ます価値があるが、後者にはそれがない。
当然のことである。本人に解決の意思がないのだから、いくら励まそうが意味はない。

本人に解決の意思がないケースも、いくつかのパターンに分類されるであろう。
問題が自己の力を超えているため、最初から諦めているケース。こちらについては、同情の余地はある。
しかし、惚気のように本来問題でもないことを、さも問題があるように話すケース。友人であれば、このような自慢も聞いてあげる心の余裕が必要かもしれないが、それはお互い様の精神によるものかもしれない。あるいは不幸自慢のケースもあるだろう。
これらの愚痴は、、、、娯楽と言える。

では、愚痴には意味がないのか?
私はそうは思わない。

前者の愚痴は、単なる憂さ晴らしで終われば同じことを繰り返す不毛なループとなりかねない。
そこに陥ったときは、後者の不幸自慢と何ら替わりはない。
しかし、他人に話すことで問題点を客観視するための行為であるとすれば、そこには大きな意味がある。
基本的に頭の中の思考のみでは、細部を具体化しなくても良いために問題の全体像が曖昧になる傾向がある。それゆえ、問題の構造把握において見落としが生じることが結構多い。
だから、問題点把握のためにノートなどを使って書き出すという行為にはそれなりの意味がある。そこに加えて他人の視点からの分析を加えることが出来たならば、抱えている問題の解決に一歩近づく可能性は高い。
もちろん、それで全てが解決するわけではないのだが、それでも着実に解決に近づいている。

すなわち、ポジティブな愚痴である。

他方、後者の愚痴はあまり意味がなさそうにも感じる。
しかし、それはそれで娯楽としての意味がある。
それは生活にメリハリを与えるためのエッセンスなのだ。

そう考えると、これもポジティブな愚痴と言えなくはない。

もちろん、これが成立するためには一つ条件がある。
それは、愚痴を言う人が自ら愚痴には意味がないと理解していること。すなわち後者の愚痴であると知った上で利用することである。
ただ、前者の愚痴と思い込んで扱った場合にはトラブルになりやすい。
何せ、愚痴を聞く側からすれば娯楽なのである。娯楽に真剣な議論を期待しても無駄である。
真剣な吐き手と、娯楽と感じる聞き手。
意思の疎通が出来るはずもない。

愚痴には2つのパターンがある。
客観視のための機会として。
生活にアクセントを与える娯楽として。

そのことを理解していたならば、愚痴もあながち忌避するものでもない。

「そこに意味を見付ければ、それはもはや愚痴ではない。」