Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

人生は自己認識が全て

自分自身で、自らの人生が素晴らしいと思い込むことが出来ればそれは素晴らしいし、自分の人生は最低だと思えば最低になる。
実際には、そこまで徹底して自己評価できるものではないために、他者の評価に依存する。

宗教などは、その評価を宗教が引き受ける。
それを信じ込むことで自らは幸福を感じ、周囲は慌てふためく。
あるとき、ふと客観的な思考に戻ってその矛盾におののくかもしれない。
その矛盾に相対することが出来なければ、再び信心のぬるま湯に戻った方が楽ではある。

ところで、自己評価とは同時に自己保身とも結びつきやすい。
自ら楽をするために、自分に有利な自己評価を下す。
永遠に自己の甘い評価を信じ続けられればそれも幸せなのだろうが、社会的には自分が思っているほどの評価を受けることが叶わない。とすれば、そのギャップが葛藤を生み出し、自己評価に疑念が湧く。自己の評価と他者の評価の間を行き来しながら、心理的に不安定な時期を過ごすことになる。

人間にとっては、自己評価と他者評価の間に矛盾がないのが理想的なのだろう。

素直になれない。。。というのも、他者評価に対する信任がないからこそ起こる現象ではないかと思う。自分はこんなに頑張っているのに、、、評価してもらえない。。
でも、評価と友人関係は全く異なる。
この記事では、異なるものを同列に並べて書いているように感じられる。
傷をなめ合う友人関係もあれば、切磋琢磨する友人関係もある。現実には、その両者をいろいろと兼ね備えているんであろうが、そういう意味で友人とは自己と同一の感覚を持ちやすい人間の関係と言うことになる。
明らかに異なった考え方を有していれば、よほど特殊なケースでなければ友人関係にはならないであろう。

しかし、他者評価は違う。
友人ではなくても評価はされる。その有利不利はあるにしても、人は他者を評価するものだ。
それを表に出すかどうかは別だし、その結果を友人関係として結ぶのは、評価結果が自分に近しいと感じた場合に限られる。自分とかけ離れていれば、そうそう友人関係を結ぼうとするとは限らない(目標とするために、、、というのはあるかもしれないが、それが本当の友人関係かどうかはわからない)。

さて、友人関係を広げるのはなぜなのだろうか?
一つ大きなメリットがあるのは、自分が社会に受け入れられているという安心感を見いだせることであろう。その感覚が薄いほどお互いに強固な友人関係を望むようになり、それを抜けるときの制裁が厳しくなる。一つのコミュニティーなのだろう。

切磋琢磨は自己の能力を向上させるための利用関係と見ることも出来る。もちろん、心情的には利用関係ではないのかもしれないが、自らのモチべーションを上げるということで言えば、やはり利用関係ではないだろうか?
それは、社会的により大きな評価を受けるためかもしれないし、自己の目標に届くための相対的評価としてかもしれない。

でも、やはり最終的には自己の認識がどうかによって変わる。
それが純粋に自己評価のみなのか、一定の他者評価を受け入れているのか、あるいは大部分を他者評価に依存しているのか、それはわからない。
しかし、自己の幸福は最終的には自己評価によっているのだ。

「自己認識において自らは神である。良き神として振る舞うか、わがままな神として振る舞うかは、良心によってのみ束縛される。」