Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

私企業の提供する公共物が、個人の自由を制限できるかという問題

先日、ストリートビューに下着映ったということで損害賠償訴訟が起こされているという内容が報道されていた。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110805-OYT1T00815.htm

まず、個人的には裁判まで起こすのはどうかと思わなくもないが、問題を明らかにするために敢えてそれを提示するのはありだとも考える。

一般論としては以下のような考えがあるだろう。
・下着を外に干すと言うことは見られることが当然なので、それをもって訴えるのはおかしい。
・通行人が下着を見せられることに対する苦痛は?
などが否定的な意見だと思う。

ただ、私としてはこの訴えに対する共感は多少なりともある。
まずは、日本という場所における文化性。
かつてオリンピック開催時に、ベランダから干される洗濯物が見苦しいとの意見があった。
確かに、洗濯物は景観上綺麗ではない。
ただ、欧州(特に北欧)などでそれをあまり見かけない理由は、単に日照の違いである。
日本は、太陽の光を使って干すことに効果が高い地域。
そうでない地域では、単純に効果が薄いから外で干さない。

すなわち、生活に太陽光を利用するという文化なのである。
その上で、表に干された洗濯物は否応なしに通行人の目に入る。
しかし、干しているのはお互い様と言うことで、その目に入ったはずの洗濯物は無意識のうちに無視され忘れ去られる。そういうマナーというか慣習がある。

外で干すなと言うのは、ベランダに干すことおよび、それを無意識に置くという、日本の文化を否定することにつながる。
下世話な例で恐縮だが、偶然立ち小便していたところを見つかってしまい、それを延々と周囲に話し続けられる状態。さて、それが我慢できるだろうか?


考えてみれば、ストリートビューは多くの人が便利に生活する上での一種の公共物であろう。
公共物と言うよりは、共通の記憶という方が良いかもしれない。消すことの出来ない共通の記憶である。
しかし、強いて言えば私企業が提供するそれである。完全な公共物ではない。
その擬似的な公共物が個人の生活をどこまで束縛できるのか?
ストリートビューを避けるために、わざわざ部屋内で干すということを強制されかねない。

今回の裁判は、この点が議論されるべきだと思う。
公共インフラが、どこまで個人の自由を束縛しうるか?
意外と難しい問題だと思う。

「ニッチとは社会常識の変化により生み出された既得権益の隙間を広げることであって、未だ発見されないそれを探す作業ではない。」