諦めることとプライド
諦めると言うことは、諦めることを決断したことに等しい。
言葉尻の問題のように思えるが、諦めないことをと諦めることの間には明らかに違いがある。
諦めないことには、諦めないことをきっぱりと決断した場合と、諦めきれない場合の2つが存在する。
この両者は明らかに違う。
修辞上は、諦めないことを決断しない場合という状況も存在するだろうが、通常それは諦めきれない場合に含まれると考えても良いだろう。
諦める=重要な決断を下した結果なのである。
それが、どのような原因によりそこに至り、またどのような思考によってその決断が得られたかはわからない。
ただ、最も重要なのは決断を下したという事実ではないだろうか?
ひょっとすれば、決断は間違っていたかもしれない。
あとで後悔することになるかもしれない。
それでも、決断を下した。
そこには、哀れみも同情の必要ない。
それが決断を下すと言うことなのだと思う。
そして、その決断を下した以上はぶれてはならない。
ぶれること=自らの判断を否定することなのである。
もちろん、その下した判断が間違いと言うこともあろう。
その場合に、方向を修正することが悪いわけではない。
そして結果的には良い方向性に導くこともあると思う。
しかし、その下した(そして誤っていた)決定が重大なものであればあるほど、イコール自己否定にもつながる。それは、決定をおのが内にとどめていた場合には自己否定であり、決定により他者を巻き込んだ場合には他者からの否定となって現れる。
その否定に耐える決意をして誤りを修正することは、それも一つの決断であり尊重されるべきものではあるが、その前に誤った決断を下した結果が覆るものではない。
それは決断者が持ち続けなければならない負の遺産である。
人は、人生において多くの決断を下す。
軽いものは毎日何度も、そして重いものは人生において数度、あるいは一度きり。
諦めることも、その決断の重さに比例してその重要性が変わる。
その判断の誤りにより生まれる負の遺産も同じである。
そこでふと思う。
人間の持つプライドというものは、この諦めなければならなかった結果の積み重ね。
いや、思い決断を下してきた積み重ね。
その重みが重いほど強くなるのではないだろうか?
もちろん、プライドを軽く扱う風潮があるのは知っている。
しかし、本当の意味でのプライドとはそこに宿るような気がしている。
「プライドとは積み上げて作るものではなく、削ぎ落としても落としきれないそれである。」