Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

子供とネット

ホリエモンひろゆきが「TVタックル」に出演し論破祭りを開催wwww(http://blog.livedoor.jp/itsoku/archives/45277231.html
正論すぎる!ホリエモンひろゆきテレビタックルに出演者阿鼻叫喚(http://www.yukawanet.com/archives/4894967.html

 テーマはネット規制であるが、上記番組では規制派の論理構成の低さが際立ってしまったようだ。もっとも、ディベートであり反規制派の議論能力や正当性が高いという話ではない。この議論において、私が興味を惹かれたのはスマホが成績悪化につながるという規制賛成派の問いかけに対して、規制反対(不可能?)派である西村ひろゆき氏が語った「そもそもスマホを与えなければよい」という答えである。
 メディアリテラシーやネットリテラシーという言葉が用いられるようになって久しいが、逆に言えば大人であってもこうしたリテラシー能力を高めなければネットの情報に流されてしまうこの時代、子どもたちに対する教育および規制はどうあるべきかは真面目に検討されなければならないと私は思う。

 ただし、酒やたばこのように単純に年齢制限して規制すればよいというものではない。以下にいくつか子どもとコンピュータやネットを結び付ける記事を取り上げてみる。

「未来のジョブズ」目指す、小学生の人気習い事(http://www.yomiuri.co.jp/national/20150629-OYT1T50079.html
スマホ依存症が危ない!うつ、小指変形、睡眠障害など深刻な健康被害の恐れも(http://biz-journal.jp/2015/06/post_10538.html
イギリスの高校で生徒の成績が急上昇!その秘訣は「スマホ禁止」だった!?(http://tabi-labo.com/148983/test-ban/

 おそらく、これ以外にも様々な調査研究結果に関する情報があるだろう。ここで考えるべきは、消費するためにネットと接するのか、創造性を獲得するためにネットと接するのかである。冒頭で取り上げた議論ではその点が非常に曖昧なまま、規制派も反規制派もこのことを混同しているように見える(言葉が足りなかっただけかも知れないが)。
 それだからこそ、「スマホを与えなければよい」というキーワードが私の目に留まった。もちろん与えなければよいと言う話ではなく、要するに子供達が接する環境をどのように提供できるかの調整なのだ。まさに、包丁との接し方、薬との接し方、危ない人との接し方、等々日常生活の知恵でしかない。大枠としての一定の規制はあっても良いと私も思うが、単純に規制すれば済むという話ではなく使い方次第なのだ。

 人の成長においては、私は3つの過程があると考えている。一つ目が「蓄積」の過程で、外部情報をいろいろと自分の中に取り込むフェーズである。次が「醸成」の過程で、入手した情報を自分の持つ考えとかけ合わせながら判断し、取りこんだり捨てたりするフェーズ。そして最後が「発信」の過程となる。これらはどれを欠いても良いというものではなく、バランス良く身につけることが重要だと思う。
 スマホなどの情報ツールは、手軽にその内の蓄積と発信ができてしまうため、中間の醸成(思考の過程)がどんどんと削られやすい側面を有していると思っている。もちろん、短い時間で気の利いた言葉を返すなどの判断力が養われる面もあるかもしれないがあくまで条件反射的なものであり、物事を自分なりに消化する時間がどんどんと削られやすい。

 考える時間を別途確保できればこれまた問題は無いが、片時もスマホを手放せないような状態に陥れば、深い思考をする時間が減少するのは自明の理でもあろう。ゲームはどうかと言えば、一人で熱中するので少なくともゲームという対象に関する狭い範囲での思考は繰り返される(それも思考の広がりがあるとは言えないと考える)。
 ネット端末の操作に秀で情報を集めることには熱心になれたとしても、それを自分なりに読み解くことができなければ誰かが意図して流した情報に踊らされるてしまう。最大の問題は、物事をしっかりと考える余裕(気持ちも時間も)を無くしてしまう、まさにそこにあるのではないだろうか。

 逆に、問題意識をきちんと持った状態で柔軟な思考力を保持したままネット接することができたなら、ネットは十分に有用なツールとなるのもまた間違いない(ネット万能主義ではない)。誰もが判ったつもりではいるが、ネットは道具であり手段である。
 道具の使い方や接し方は、通常年長者(親や教師)から子供達に伝えられていく。若しくは子供達のネットワークの中でそれを覚えていくものである。ところが、現在インターネットツールが子供達のネットワークそのものを抑えてしまった。ネットの善し悪しに関する情報交換をする場所すらがネット(SNS)であるとすれば、そこでのネット批判は笑い話にしかならないだろう。

 私事で恐縮だが、私の子供達には高校になるまで携帯電話を持たせなかった。この事に関してはいろいろな意見があるのは承知しているが、友達達が皆それを持っている中でも無い状態でのコミュニケーションは何とか取れていたと思う。苦労しているという泣き言は幸い聞くことがなかった(私に伝わらなかっただけかも知れないが)。
 私が現在書いていることもそうではあるが、ネット上でネットを批判するというのも自己撞着のようなものだ。それは大人自体がネットの有り様をきちんと消化できてないと言うことでもあろう。ただ、だからと言ってネットは可か否かという対立構造で考えるのはもっとおかしな話である。
 だからこそ、子供に対して説得力がある形でネットへの向き相方や接し方をきちんと教えられるシステムは重要なのだろうと思う。