Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

勘違い

 不思議なものではあるが、おそらく社会の大部分は勘違いにより構成されており勘違いにより回っている。もし勘違いという言葉が今一つそぐわないならば、思い込みと言い換えてもいいだろう。ただ、「こうではないか」と考えた(推測した)ことをもって行動を開始し、しかしそれが事実と異なっていたことを勘違いと呼ぶとすれば、勘違いと思い込みの間にはあっても行動の有無程度しか差異はない。
 あるいは、勘違いには恣意性・意識性が無く思い込みにはそれが多少なりとも存在するというニュアンスの違いはあるだろうが、意識したかしていないかはよほど極端な例でもない限りにおいて私たちは正確にはわからない。その瞬間意識していなくとも後で意識していたと思い込むことはよくあるし当然その逆もある。

 さらに、大部分の人は程度の違いこそあるものの、概ね自分に都合の良い認識をするのが自然である。確かに一部にはネガティブ思考の人も存在するが、彼らも逐一ネガティブであるわけではない。もし、自分に関する全てのことにネガティブな反応を示すようになったならば、人間は現実的に生きていくことができるのかも疑わしい。自分自身の生命や存在そのものを否定するのも同じだからである。
 観念的な問題は別にしても、社会を構成する全ての人々は多かれ少なかれ勘違いを抱いたまま意見を形成し、行動し、生活を送る。もっとも人間が関わる現象を取り扱う社会科学においても、実のところこうした曖昧さを許容することは必ずしも得意ではなく、何かあるごとに様々な過程や条件により曖昧さを排除しようと考える。その一つの典型は人間の経済活動を取り扱う経済学であると思う。経済理論は過去を分析することには一定の有効性を持つが、超短期の行動予測ならいざ知らず未来を予測するツールとしては非常に心許ない。こうしたことはノーベル経済学賞を受賞した経済学者の運営したファンドが破綻したことからも窺い知れる(http://ja.wikipedia.org/wiki/LTCM)し、だからこそいつの時代にも経済不安というものは訪れる。
 曖昧さを適度に加味しようとする試みは学術分野でも様々な形で試みられているが、曖昧さを内在するほどに決定的なことが言えなくなるという矛盾を抱え込む。それは結局のところ学術的意味を低下させてしまうのだ。

 逆に、世界が勘違いに満ち溢れているにも関わらず問題が指数的に増加することなく、社会が定常を保ち得ているのはなぜかという面にも当然考えが及ぶであろう。元々人間が生み出す社会などと言うものは矛盾だらけのものであって、少々の勘違いはその矛盾と比較すれば些細な存在であるということもできるだろうし、反対にこうした勘違いがあるからこそギスギスとした社会が円滑に回るのだということもできる。結局、勘違いといったバッファが歯車の遊びのように機能しているのだと思う。
 人は、自らに都合の良いことを想像する時に安心し自らを納得させる。逆に都合の悪いことを想像する時に自らを不安に追い込み良くない考えに囚われてしまう。適度な勘違いは、人間が持つ想像力を破滅のループへと誘わないための安全装置として生物学的に盛り込まれているのではないかとすら感じる。
 もちろん、勘違いにより人間関係に重大なひびが入ることもある。だから、私たちは普段からなるべく勘違いを行うことないように気を払う。勘違いが生み出す結果は自らにとって不利に働くことがあり、相手に対して迷惑をかける危険性をも秘めているためではあるが、それでも適度にポジティブな勘違いは私たちが気付かないところで社会の潤滑油となっている。

 一方でネガティブな勘違いが存在しない訳でもない。通常私たちはどちらかといえばポジティブな勘違いをするものではあるが、場合によっては悪い方向の勘違いしてしまうこともある。ただ、ふと思うのはその勘違いは本当にネガティブなものなのだろうか。リスク回避としてその時点で必要とするものではないかと思うのだ。
 結果的に言えば間違いなく悲観的なものではあっても、それに思いを馳せる時にはポジティブな思考状態にいる。ポジティブな現状を大切にしたいと考えているからこそ、それを失ってしまう虞に慄き勘繰りを入れたくなってしまう。
 単なる勘違いとして済めば笑い飛ばして終わりのことではあるが、それをきっかけとして心理的な諍いが生み出されることもある。このあたりの状況についてはケースバイケースなのだろうが、概ね心理的な浮き沈みが激しい人の場合ほど些細な勘違いが大問題に広がりやすいように思う。

 勘違いは、多くの場合ポジティブな現実にいる時にはネガティブ側に、ネガティブな状況下にある時にはポジティブ側に働きはしないだろうか。もちろん、ポジティブな時にポジティブ側の勘違いをしても気づかないだけなのかもしれないが。
 どちらにしても、勘違いは思いが一方向に流れているときに生じやすい。だとすれば、勘違いに気づくということは私たちに再検討の機会を与える無意識の注意喚起を行っていると言えなくもない。もっとも、それが気付かなくとも何とかなる(むしろ上手くいくのかもしれない)この社会とはいったい何なのだろうかと考えるのもまた一興であろう。