Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

安全と無駄

原発問題が象徴であるように、絶対的指標において経済性よりも安全性を重視する人が少なくはない。だが、同時に同じ人たちは社会の無駄を排除しようと声を上げる。そこでふと疑問に思うのだ。安全を追い求めることこそが世の中での最大の無駄ではないのだろうか。
語弊があってはいけないので触れておくが、「無駄」には二つの側面がある。一つには様々なケースに対しての布石として生じてしまう結果的な無駄と、最初から有効に活用できないとわかった上で行われる浪費である。世の中に溢れる無駄を排除しようという声は、後者に対するものであるはずだと思うし、そうであれば私も合点がいく。ところが、公共事業無駄論などに見られるように必ずしも浪費と言えないものにまで「無駄」のレッテルが貼られており、むしろそちらの方が幅を利かせているのが現状である。
本当に無駄を言うつもりであれば、日本中で食べることなく捨てられている食品の無駄の方がすっとインパクトが大きいのではないだろうか。

しかし、食品が捨てられているのにもそれなりの理由がある。一番大きいのは食の「安全」を確保するためだ。賞味期限切れの食品が廃棄処分にされるのも、本当はまだ食べられるものが販売されなくなるのも、全てはシステム上の安全を確保する仕組みによる。個別に判断することによるヒューマンエラーをなるべく排除するには、こうした仕組みによる安全確保が欠かせない。ただ、それは同時に膨大な無駄を生み出している訳でもある。
一部のメディアや識者はこの無駄を看過しがたいと提言するが、それでも安全を保証する仕組みを変える事にまでは至ることができない。当然である。社会は無駄を見過ごしても安全であることを無意識のうちに選択しているのである。

実を言えば、私達の社会には同じ様な安全性確保のために為されている無駄は数限りなく存在する。逆に言えば、よほどの浪費部分でない限り無駄を省くとは安全性(というよりは余裕)を削ることとリンクしている。民主党のパフォーマンスで有名になったが、科学技術への投資などは実際大部分が無駄と言えなくはない。そもそも、投資とは小さな可能性を見つけ出す作業であるのだから、無駄か否かを現状で問えば無駄と判断される可能性は高い。しかし、こうした多大な積み上げが将来の成長に結びつく訳でもある。これらは安全と必ずしもリンクする訳ではないが、安全と成功の可能性を同じ線上で見ればさほど変わるものでは無い。
ただし、科学技術の世界で言えば安全と可能性は逆向きの目標でもある。安全を追い求めることと新たな可能性を追求することは多くの場合相反する。私達はそのバランスを常に追いかけることとなる。

豊かな社会とは、それだけ安全性や可能性に投資が可能な社会のことを意味する。だとすれば、私達は安全と共に存在する無駄を別の意味で評価しなければならない。また、安全とは絶対的な指標ではあり得ない。それは常に相対的なものとして存在し安全が全てを左右することはないのだ。
一部マスコミが勝手な論理で貼り付けたレッテルに踊らされることなく、あるいは頑迷な安全信仰に惑わされることはなくしっかりと自分たちの安全について考えていきたいものである。