Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

面白い人生

できる事なら自分の人生は面白かったと言って死に至りたいものではあるが、面白い人生が幸福であるかどうかはよくわからない。
そもそも、人生を面白いと評価する主体が誰であるかによりその「面白い」の意味は大きく変わる。演じた漫才にコントや落語を見て面白いと評価されたとしても、当の本人は当然必死にやっている訳であり演じる楽しさは感じていたとしても常に面白いと思いながらやっている訳ではない。
面白い人は周囲に認められることを喜んでいるかも知れないが、だからと言って当人自身が面白いことを楽しんでいるとも限らない。自分で面白いと感じることは、往々にして自らに直接降りかからないものを見て、あるいはそれに接して感じるものである。
だとすれば、面白いという評価を下す者は基本的にそのもの自体ではなく、それを扱い、見守り、観察している人によると言うことになる。もちろん、自分で自分のことを「面白いヤツ」と宣伝する者もいようが、その場合には当人は「自分のことを面白いと評価する他者」を見て悦にいるのである。

ここで今更ながらではあるがちょっと整理をしておこう。「面白い」という言葉には他者を笑わせるような意味と、強く興味を惹くという意味がある。この両者は似ているようで少し違う。前者は面白い当人が積極的に笑わせようとサービスしてくれているケースになるが、後者は当人は別に笑わせ用途などと思っている訳はなく自分勝手に好きなことをしている。ただ、その自分勝手に行っていることをまわりが見て興味を引かれるというものである。
すなわち、前者は面白いと評価するものが受動的であるのに対して後者は能動的なのだ。何に興味を引かれたかは様々であろうが、面白いと評価される当人は周囲の人を強引に惹き付ける何かを持っていると言うことでもある。

さて、ここまででもわかるように「面白い」と感じているのは当の本人ではない。例えば物事に夢中になっている人は、何かを面白いと感じて執心するがそれも当人自身が面白い訳ではなく、当人がその「もの」あるいは「出来事」、「仕組み」、などなど何かを面白いと評価している訳だから、その興味を引いている「もの」や「現象」が自分が面白いと思っている訳ではない(そもそも「もの」が思うと言うこと自体が変であるが)。
だとすると、面白い人生というものも本来は他者がその認定を行うものである。当人はと言えば、もし仮に客観的に自分を見ればそう思える時もあるかも知れないが、普通は何かに集中しているからこそ他者に面白く見えるのであって、すなわちその時には気づいていない。

そもそも他者から見て面白いという人生は、おそらく身近な家族からすれば面白くも何ともない人生ではないかと思う。むしろ、大変で迷惑な存在だと言えるかも知れない。企業でも似たような状態があるかも知れないが、まだ企業の方が同じ様な仕事をするという意味で考え方や方向性の一致ができるため、まだマシではないかと思う。
そして、面白いと評価される当人はそう思われているかどうかなどあまり重要ではない。見られていると意識することも多少はあるかもしれないが、そんな視線程度で容易にぶれてしまうような人であれば、多くの人の興味を惹き付けることなどない。
そう考えると、面白いとは人生におけるエンターテインメントそのものである。求道者は自らの興味を実現するために必死になり、側近には多大な迷惑をかけるかもしれないが、少し距離を置いている人たちからすればそれは非常に面白い見せ物に映るのだ。
ただ、当人にとっては他者が面白いと評する人生を送れることは、価値のあることではないかと思う。少なくとも自分の存在を他者が意識して記憶してくれるのだから。