Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

悪が必要な時

世界経済は、需要の奪い合いの時期に入った。これまでも需要の奪い合いは常に存在し続け、戦争という形でその勝負を決する動きは幾度となくあった。初期には植民地を奪い合いそこから簒奪した安い資源を使って別の地域に効果的に売り込むこと、そして近年では人口は多いが生産能力の低い地域へ売り込みをかける動き。要するに、富であるかモノや労働力であるかは異なるものの、競合相手より供給能力を高めればそれがそのまま成功につながる時代が永らく続いた。
ところが、戦後の発展途上国の成長から世界の供給能力は飛躍的に上昇する。もちろんその最先端を走り続けてきたのは日本であるが、現在において品質やいろいろ問題も抱えてはいるものの、あくまで供給面のみで言えば世界は十分なそれを手に入れた。その結果何が起こったか。供給能力のみではなく、それを如何に安く作るかあるいは如何にオリジナリティを出すかの方が重要になった。
良く言われるように大量生産大量販売か、あるいは高付加価値の高級品の販売である。日本は高付加価値の方向に進むべきだとの概念的な訴えは強かったが、高付加価値の製品は基本的に少数販売が原則であって、かつてのウォークマンや現在のiphoneのようなブームを巻き起こせないと大量には売りさばけない。日本のインフラは未だ大量生産を想定したものであって、高付加価値で生き残れる分野などまだまだしれているのである。

さて、かつての戦争は実質的に経済紛争の解決策の一つであったが、それでも第二次世界大戦後に局所的な紛争はあっても世界に拡大する戦争は起こらなかった。それは需要の奪い合いを戦争という暴力ではなく、ルールの主導権争いに置き換えて争っているからである。全面的な戦争は一定以上に文化を得た地域においては容易に発動できないのである。
もちろん、それは戦争に勝っても植民地を得られないという国際社会の常識の変容による。現在の高度化した社会を壊してしまう武力紛争は、経済紛争の理由としては下策に成り下がったのだ。今は、相手の基本的な主権を認めながら、ルールで縛っていくのが実質的で密かに進行する戦争である。ルールで相手を縛り付ける事で対等ではない競争を押しつけるのだ。
では、日本はこの方面で弱いのかと言えば必ずしもそうではない。まあ、強いわけでもないのが実際ではあるが、特に日米間ではマスコミはアメリカに一方的にやられているように言うが、決してそんな事はなかった。少なくとも政治主導などと言う戯言がまかり取る前にはである。官僚は国民に対する面の皮の厚さをアメリカに対しても十分発揮してきていた。だから、アメリカは日本における政治の主導権を政治家に移すように圧力をかけているとも言える。現在の政治家のていたらくを見ていたならば、誰が喜ぶかは火を見るよりも明らかではないか。

もちろん政治家の全てが今ダメであると考えてしまうのも早計である。ただ、タフネゴシエーションをできる政治家が減っているのは事実であろう。そのネゴシエーション能力を国内の権力争いではなく、海外との交渉に生かして欲しいものであるが、日本国内においてそれを弱めて悦に入っているのはマスコミである。悪者は全て排除で、学級委員長的な良さのみを追求する建前的な正義の推進だ。
しかし、いじめ問題などを見ても単純なよい子症候群ではだめなのはよくわかる。悪を飲み込んで交渉できる度量が必要なのである。戦後の教育は、子供達の平均的能力を向上させるには一時的には役立ったしかし、差をつけないことが至上となって結果的に向上自体が露と消えた。ここで言う悪とは、純粋な悪い意思ではなくルールに必ずしも縛られない交渉力だと考えたい。

ルールの押し付け合いになるからこそ、その争いはルール外に保有する能力の差が大きな交渉力となる。それはアンフェアな戦いではあるが、そのアンフェアな戦いが出来る能力がもっとも必要とされるのだ。中国が武力をちらつかせたり、韓国が日本の悪口を喧伝して回るのも、どちらかと言えばこの部類に入る。もちろんアメリカもアンフェアな要求をいくらでも日本に突きつけるであろう。
これらに正面からルール内で戦いを仕掛けてもおそらく勝つ事は出来ない。武士道としてはそれでもルールに縛られるべきなのかもしれないが、日本という国をそれのみで散らすわけにはいかない。

今日本に必要なのは、アンフェアな力を海外に働かせる能力と度量なのではないだろうか。