Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

番長復活論

大津市のいじめ問題は次々と新しい情報がもたらされてくるが、今ひとつどの情報が真実か判りかねている。ただ、はっきりと言えることは教師・校長・教育委員会の責任感のなさであろう。本来、教育だけでなく子供を守る立ち場にあるこれらの職責の人たちの責任感が何処にも見えてこないのである。
その理由としては様々な可能性が考えられるであろうし、同時にそれらは複合的でもある。自分の昇進問題としていじめの存在が自らに跳ね返ることもあれば、そもそも教育だけで手一杯になっておりいじめの解決という根の深い問題にまで立ち入りたくないという傍観者心理もあろう。
今回は自殺という痛ましい結果が広く知られるようになった結果逃げが利かなくなったが、それがなければ悲しい出来事と言うことでやり過ごしていたのであろうことは容易に想像ができる。死にまで至らなければ、学校を卒業するまでの問題だからである。問題よ起きないでくれとひたすら願っているといった感じであろうか。ルーチンワークとして教育をこなす事のみを考えていたならば、このような対応になるのは予想しやすい。

一部には、校長などは加害者の父兄関係者から強く脅されていたというような情報もあるが、真実は判らない。ただ、仮にこのような状況があるとすればそれこそがまさに今回の事件を引き起こした元凶とも言える。教師・校長・教育委員会が言い逃れをするのは、直接の責任は自分たちにはないという弁明でもあるのであろう。
今回の事件において加害の責任が明確にされたとすれば、最も責任が重いのはその当事者たる生徒である。加えて年齢がまだ中学生であったとすればその親の責任も一定のレベルまでは免れ得ない。世論が巻き起こったのは、いじめ逃げという状況を許すまじという義憤心であった(エスカレートしている面も確かにある)が、圧力組織に対する社会的な反発もかなりあるのではないかと思う。それが事実であったなら、これを機に大きく変貌を遂げて欲しい。

さて、ところで近年のいじめは歯止めが無くなったとか、陰湿化しているという声は以前から上がっていた。これを見てふと感じるのが現在の暴力団排除の仕組みである。私は決して暴力団を礼賛するつもりはないが、その組織を徹底的に排除すると結果として残るのが、ギャング崩れのような統率の取れていない暴力集団となる。これは、戦争に喩えればゲリラ戦に挑んでいるようなものである。相手の組織も統率もないために大きな攻撃を受けるわけではないが、逆に相手を一網打尽にできるわけでもない状況。アメリカはベトナム戦でこのゲリラ戦の恐ろしさを思い知らされたが、ならず者にも一定の統率があった方が全体を俯瞰しやすいという傾向がある。
繰り返しになるが、だからと言って古い仁義を通すヤクザではなく最近の覚醒剤などを売りさばくような、あるいはオレオレ詐欺などを働くような暴力団を排除することについて異存があるわけではない。ただ、ならず者にも一定の統制があることの方が社会としては上手く行くのかも知れないと感じている。

そう言えば、最近では番長などと言う名称を聞くことが無くなった。「格好悪い」という感じなのであろうが、「番長」はならず者であってもそれなりの人望を有しその社会を仕切る者である。もちろん、その者の個性に大きく影響されるわけではあるが、身内と見なしたものを守りそれは学校であれば校内に届く。
サラリーマン化した教師には見えない面が彼らには見え聞こえる。その弊害がないわけではないのだが、その効果も全くないわけではない。更に古いタイプのそれには一定の人間的な魅力のようなものも見られた。全ての番長がそうとは言わないが、番長なりの立場が存在するのである。

だとすれば、今のゲリラ戦的ないじめの時代に最も効果があるのは、先生による統制ではなく「番長」による統制ではないかとふと考えてしまう。もちろんその番長は最終的には先生により統制されなければならないが、先生になびく番長では実質的に生徒間に認められはしない。
どのような方法が良いかはもっと考えなければならないが、いじめというものは決して無くなることはないし、それを教師が抑え込むことも不可能だとすれば、生徒の中に番長的な役割を果たすものを作り上げる方が効果的ではないかと思うのだ。
それが、街のガーディアンのようなものになるのか、あるいは別のよりよい形態があるのかはわからないが、それすらも教師側が抑え込めば結局のところ見えない(あるいは見えないフリをする)いじめが消えることはないであろう。