Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

正義の味方は優しくない

私はずっとマスコミを批判しているが、彼らにも彼らなりの言い分があるのは判る。別に悪かれと思ってやっているわけでもない。もちろん、売り上げアップという資本主義の王道に従った行動も取るが、スタートライン時点での気持ちは比較的純粋なのだと思う。
彼らマスコミのスタンスは、右より左よりの違いこそあるものの基本的には同様でわかりやすい。すなわち、弱者保護と強者批判である。もっとも、弱者として誰を選び強者としてどのような主体を選ぶかで傾向に違いは出るが、それを除けば構図そのものやスタンスに大きな違いはない。こんなことを書けば、産経新聞朝日新聞はまるっきり違うであろうと言われそうだが、外国勢力(例えば中国)を敵と見なすか、国内権力者(例えば自民党)を敵と見なすかという違いはあれど、取っている態度や行為にそれほど大きな違いはないと感じている。
もっとも、そこから発信される情報はそれを受ける側の考え方に応じて、シンパシーを感じさせたりあるいは反発心を感じさせたりするであろう。それは、結果的に彼らそれぞれの考え方(信念とは言わない)に準じた正義なのだと思う。

正義については過去にも書いてきたが、基本的には正義を語るものの考え方次第の概念であって、絶対的な正義など存在しない。ある行為がある社会的に受け入れられるものであれば正義として扱われるし、受け入れられないものであれば正義とは見なされず逆に悪として、あるいは共同体に対する攻撃と見なされるであろう。正義は恣意的なのだ。
マスコミは、大きな声では言わないものの基本的に正義の味方を気取っている。ペンで権力を打倒するというのは、結果的に横暴な権力を打ち破ることで民主を救うというヒロイズムに即した考え方である。水戸黄門張りの勧善懲悪は、私達にもわかりやすく受け入れられやすいシーンとなる。
加えて、正義の味方は正義の行使に飢えている。できれば勧善懲悪と行きたいのであろうが現実の世界でそんなわかりやすい構図など存在するはずもない。多くの場合には、お互い様であるケースが多い。
さて、正義の味方が明確なそれを行えない場合には何をするのであろうか。もちろん何もしないはずはない。彼らはそれを演じるのである。正義の味方が正義の味方で居続けるためには、それに応じた敵が必要なのだ。その敵は基本的に社会の害悪でなければならないが、存在自体が完全なる悪であるであることなど見付けることも難しい。

官僚批判、政治家批判、企業批判、、、様々なキャンペーンがマスコミにより繰り広げられてきた様は、まるで世の中の流行のように移ろいやすい。正義を行使する相手は時々の状況に応じて定められ、狙われた彼らにもちろん負い目はあるのだが、選定基準自体はマスコミの気分次第で決められる。多くの場合には、叩いてもおおぴらには反論が少ない相手が選定される。猛然と抵抗する相手には腰が引けるのだ。すなわち、マスコミは弱い敵しか叩かない。いや、弱い相手を敵と定めるのである。むしろ、反論が強い相手には従順ですらある。
そう考えると、ふと疑問が湧き起こる。そんな正義の行使者は「正義の味方」と呼べるのであろうか?弱きを助け強きをくじくはずが、気づけば反論できない弱者を徹底的に叩き、弱いように見せかけている強者を大いに助けていないのか。

彼らは叩くべき強者と助けるべき弱者を恣意的に定める。それが社会の総意と乖離すればするほど、彼らは正義の味方から遠ざかる。そして、社会からは信用されなくなっていく。いくら彼らの考える正義を訴え続けてもである。