Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

死を受け入れる責任

日本の平均寿命は世界最高峰にあるが、だからと言ってそれが高齢者の幸せに繋がっているかと言えば必ずしもそうではない。むしろ、幸福ではない時間を永らく経験せざるを得ないとすれば、一種それは虐待にも近いことでもある。
命が尊いことは誰もが認めることではあるが、それはその命を持つものの尊厳を汚さない範囲でのことである。ところが、日本ではこの尊厳ある生き方についての議論は徹底的に避けられてきた。近年、QOL(クオリティオブライフ)の向上を目指し、病後治療よりも病気にならないで済むような予防を考える動きは確かに広まりつつあるが、現実にはまだまだ不十分である。あるいはホスピスなどによる終末医療というシステムも徐々ではあるが広がり始めている。
他方、「尊厳死http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E5%8E%B3%E6%AD%BB)」という概念は現状においては本人の意思が明らかな場合にしか用いられないし、一部には自殺幇助であるとか一種の殺人だという意見があるのも知っている。ただ、尊厳ある死という概念が否定されるものでは無いのだと思う。

さて、年を経て病気になってもだからと言って容易に死を迎えさせるべきだと言うつもりはない。病気が回復して再び元気になるのであれば、それは望ましい結果である。しかし、現実には植物状態であったり、あるいは寝たきりとなって生活すらまともに送れない人も少なからず存在する。
少し前に政治家が胃瘻(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%83%E7%98%BB)状態にある病人のことを「宇宙人のようだ」と評してマスコミに叩かれたことがあったが、果たしてそれが人間らしい尊厳に包まれた状態にあるかと考えればなかなか難しい。
それでも行きたい人には生きる権利があるが、その意思さえ表明できない人の生存は残された家族や意思に委ねられる。病に倒れた家族の生存を願う気持ちは最大限尊重したいが、それが切実な思いではなく自己正当化のための方便ではないことを祈りたい。
すなわち、死なせるという責任を回避するが故に生かし続けるとすれば、それは非常に残酷なことであると思うからである。確かに誰も人の死に接したくはないし、ましてやその決定を自らが下すことなど避けたいことに違いはないだろう。それは、子であっても医師であっても同じである。

しかし、それが個人の尊厳ある死に方を阻害するものであるとすれば、エゴによる責任回避と考えられないこともない。死に至らしめたという責任を負いたくないが故の非決断だということになるからである。もちろん、現実には様々なケースがあるため尊厳ある死というものを一概に規定できるわけではないだろう。ただ、それでも誰にも必ず訪れる死というものを消極的に忌避し続けることにより迎える高齢化社会がそこにあるとすれば、私達はその高齢化社会を礼賛できるはずもない。
高齢化社会や世界有数の長寿命を誇れるとすれば、それは高齢者ができる限り幸せで尊厳を持った生き方をしていると言うことが前提なのだ。独居老人の増加や孤独死などを含めた形ばかりの高齢化は、私達に重い課題を突きつけているのではないだろうか。

私達は高齢者が適切に迎える死を常に考えなければならない。親族の死を他人やその他のものに押しつけてはならないのである。繰り返しになるが、延命治療などの全てを否定するつもりはない。それは、親族との繋がりを確認する方法でもあるし、同時に心理的な別れを受け入れるための時間でもある。
まだまだ議論が深められなければならないだろうが、「死」を敬遠し続けた結果生まれる状況を私達はもっと認識する必要があるだろう。

「死が遠くなった社会においては、それを語る教育も必要かも知れない。」