Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

我慢はすべきかせぬべきか

そもそも我慢とは何か?
自分を押し殺す、自分の望みを実行せずに耐えることではないかと思う。
なぜ、自分の望みを叶えようとしないかと言えば、それは自分の望みを叶えようとしない方が結果的に良くなると考えるからであろう。
すなわち、基本的に理性的な考えが感情的な衝動を抑えている状況と言える。

ただ、我慢は自発的なものだけでなく強要されることもある。
この場合、その強要に従うのは単純に理性が衝動に勝ったからとは言えない。
ケースにおいては、別の感情(例えば恐怖など)が自分の望みを叶えるという衝動的な感情に勝ったと考えると合点がいく。個人にとって最も合理的な行動が組織においても同じだとは限らないからである。
基本的に、我慢とは葛藤そのものでもある。二つ以上の欲求が存在するときに、その一方を押さえつける。それが我慢に相当する。一つの欲求を遮る物がなければ我慢などする必要がないのだから。

さて、我慢は自己の異なる欲求がある場合と、個人と組織に異なる欲求がある場合の二つのパターンがある。後者は、親が子供に我慢を強いる場合なども同じである。個人よりも上位の何かがより俯瞰的な立場より我慢を強いるケースになる。
自己の異なる欲求下における我慢は、自分自身の心理の問題なので理性的に自己の感情を抑えれば制御可能なものである。もちろん、その制御すらできな人も存在するが、通常は子供から大人になる過程で自分の心の中の欲求に順序を付けて選択していく練習は積まれる。もちろん、それでも感情を制御できなければ上手く行かないこともあろうが、その状態にあることは自分自身も理解しているであろう。

しかし、自分にとってベストであると考えられる選択を自分以外の判断により我慢させられる場合(仮にその我慢がより広義には適当なものだとしても)には、感情のみならず理性も抑え込まれることになる。思考をもっと俯瞰的に保つことで理性的に理解することも可能ではあるが、さすがに両者を抑え込むのは容易ではない。このようなケースが人に多大なストレスを与えるのであろう。
とは言え、社会においてはこうしたケースが非常に多い。それ故、原則的には我慢に対する耐性をつけることは重要である。これは訓練により身につけることができるが、その最も多い対処法は慣れることである。
この慣れは我慢における良い方法ではあるが、同時に状況理解を鈍感にさせるという意味でベストではない。それは、我慢するのが正当であるかどうかを判断することすら諦めてしまう可能性があるからだ。

我慢とはいえど、理不尽な強要には反抗すべきという面もある。場合によっては我慢しない方が自分にとって総合的にメリットを有する可能性もあるという訳だ。それはかなり冷静に判断しなければならないので、感情的に反抗して良いわけではない。結果的に理性が感情に打ち勝てば、我慢すべきか感情を奔出させるべきかの判断を適切に行えると言うことになる。
ただし、我慢しているような状況下での心理は冷静な状態ではないため、理性的な判断ができるかどうかについてはなかなか難しい。だとすれば、我慢に対する耐性とは我慢している状態においても冷静に判断できるようにすることとも言える。

上記のように、実際には我慢すべきかせぬべきかはケースバイケースである。だから、より重要なことは我慢もできて必要とあれば我慢をやめる勇気も持つこと。我慢が目的となっては意味がない。
ましてや、恐怖からの逃避先として我慢を選択するのも、結果的に袋小路に陥ることになる。
我慢は、自らにメリットがあるからこそ刹那的な快楽よりも将来的な利益を目指すために用いるものである。
言い訳のためにする我慢には正当性がないことに注意が必要だろう。

「我慢とは理性を麻痺させることではなく、理性を保ち続けることである。」