Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

中庸

人生を語るほどの何かを掴んでいるわけでもないが、生きていく上で常に考えることがある。

それは「中庸」である。
wikihttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BA%B8

言葉としてよく用いられるものではあるが、意外と単純にバランスを取ることが「中庸」であると思われているフシも多い。
しかし、本来そのバランスを取るという行為は非常に難しい。それは単純に中間を取ればいいと言うものではない。それであれば極論を言うものが常に有利になる。現実社会でもわざと極論を振りかざして自己に有利な譲歩を勝ち取ろうというものも少なくない。

しかし、本来の中庸は周囲の意見に流されるものではない。ありとあらゆる知識や道徳を自分自身の中で消化した上で、最も良い方法を選択すること。それは、凡人には難しいことであり、聖人でもいつもできるわけではないことでもある。

完全なるそれをすることはできなくても、それに向けて努力することは可能である。問題は、その努力の方法は時代と共に変化する。変化は2つの面で現れる。
一つは、時代の常識は常に変わり続けること。それは社会環境が変化し続けているからに他ならない。もちろん、時代を貫く常識もある。しかし、そればかりではない。中庸は、変化するものなのだ。
もう一つは、情報量の変化。かつては飽くなき情報探求が重要であった。しかし現代では異なる。情報を取捨選択すること。取捨選択はしても偏らないこと。これが重要となる。
偏らず取捨選択をすることは非常に難しい。常に自分は妥当な情報収集を行っているかどうかを自分に問いかけなければならないし、聞くべき情報に耳をふさいでいないか(逆に疑問を持つべき情報を信用しすぎていないか)を考えなければならない。
正直言ってそんなことを出来るとは思わない。ただ、その気持ちだけはいつも持ち続けたい。

さて、なぜ「中庸」という言葉を大切にしたいのか?
それは、さきほど示した一つ目の面にある。常識・・・そこから導き出される中庸の結論は常に変化していること言うことである。
世の中の考え方は常に変化しているのは誰もが知っている。科学技術の世界では常識など1年で様変わりする。それは社会において多少スパンが長くなるものの同じであろう。
ところが人とは不思議なもので、社会の変化に合わせて考え方を変えることを「変節」と呼ぶ。変節とは、信念や主義主張を変えることである。

主義とは人が行動を起こすときの原則や規範思想であり、主張とはその主義を表現することである。

行動原理(すなわち主義)は、社会環境が変化すれば当然変化すべきものであるが、その変化のスパンは比較的長い。ともすれば100年単位と言うこともある。
だから人は一度決めた主義は容易には改めないし、それを変節と呼んでポリシーがないなどと見下すことも少なくない。

しかし、必要なときには変わらなければならない。その必要なときはいつ来るかわからない。ひょっとしたら自分が生きている間には来ないかもしれない。
それでも変わることを正当に評価するためには、中庸の精神が大切なのだと思う。

例えばすぐに変わった例を挙げよう。原発の考え方。事故前と事故後では社会の常識は大きく変わった。原発の技術が変わったわけではない。地震の発生確率が変化したわけでもない。変わったのは人の心である。
人の心が変われば、常識は変化する。

例えば変われない例を挙げよう。デフレ。景気は常に変動する。だから、インフレ期の常識はデフレ期のそれとは異なる。インフレ期にはインフレ期の常識があり、デフレ期にはデフレ期の常識があるのだ。
状況に応じた対処が何より重要ではあるが、人の心は容易には変化しない。

思想を練り上げることは当然重要なことである。社会は常に何らかのアクションを欲している。そのための行動規範は絶対に必要なのだ。
しかし、その思想はある社会環境を前提に作り上げられる。前提条件が変われば使えるケースは極端に限られる。
社会環境は、様々な事実と人々の考えにより形作られる。


今は動乱の時期だと言われることも多い。
しかし私は違うと思う。

「今も」動乱の時期なのだ。

「人々は今は特別だと思いたい。なぜなら、自分たちが当事者だから。
でも、今は特別でもあり、いつもどおりでもある。それは、社会は常に変化を必要としており、変化こそが当たり前なのだから。」