夫婦別姓は制度なのか文化なのか?
これを制度ととらえれば、別にどちらでも良い。あくまで運用上の問題。
これを文化ととらえれば、文化を揺るがすゆゆしき問題となる。
別姓推進派は制度とらえ、別姓反対派は文化ととらえている様に見える。
だから話が噛み合うわけはない。さらに言えば、裁判所は文化を語ることの難しい場所であるため、どちらかと言えば推進派に有利に働きやすいバイアスがあると思う。
確かに、別姓の国は世界中に数多くある。
ただ、文化を考えたときに日本が世界の多数派に必ずしも合わせなければならないわけではない。
ところで、制度とは慣習では曖昧な部分を明確化しようとするものだと私は思う。
そこまでする必要のないものは、慣習のまま。
要するに国民間でトラブルが頻発するものについては、制度化して強制力を持たせようという主旨だと考える。とすれば、制度は慣習(文化に含まれる)に依存する。
あとは、夫婦同姓が日本文化においてどれだけの役割を果たしてきたかによるだろう。
他方、日本文化の変遷の中でペンネーム的なものはいろいろと社会に根付きはじめている。
扇千景は国土交通大臣の時、正式名称ではなく芸名で紹介されていた(もちろん、正式文書には本名が用いられている)。
私は、反対がある程度以上多いのであれば、このペンネーム的な(但し、アイデンティティが確立したものでなければならないが)名前の自由度をもっと高めればいいのではないかと考える。
単に婚姻だけには関わらず第2の名前を持てるようにすればいい。それはネット上のアバターかもしれないし、在日外国人の通名かもしれない。
既に、現社会はそれを受け入れている素地はある。
別姓に反対する人も少なくはないと言うことは、社会的にはまだそれを皆が受け入れる雰囲気ではない。そこに軋轢を生じさせなくても、代替案は存在するのではないだろうか?
もちろん、役所の登録は正式名称になるだろう。
しかし、第2氏名を公的に登録することで、もう一つの名前(それは旧姓でもいい)が銀行やその他の手続きで使えるようにすれば、ある程度問題の解消ができるのではないかと私は思う。
第2の氏名を無秩序に持たせるのがいいと言っているわけではない。
それが必要と認められる範囲を明確にすればいいのだ。
例えば、DQN親に変な名前をつけられた場合(まあ、これは社会通念的なものを過度に外れていれば正式に変更できたと思う)や、第2の人生を歩むために必要と公的に考えられる人など、その使用可能性は少なくはないと思う。
別姓がいい悪いではなく、もっと広い範疇で議論できれば良いのではないかと考えるのだがどうだろう?
「文化は結果、制度は予防である。」