Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

容姿と精神のエイジレス化

最近、20代女子が40代男子を好む理由なんて記事があった。「束縛しないし経済力がある」点が優れているそうだ。
年齢の離れた恋愛など現代に限った話ではないし、ファザコンであれば、また別ではあるのだが、、、、
近年、確かに年齢を感じさせない容姿の男性・女性が増えている。
同時に、信じられないくらいませた子供もよく見かける。

それは、生物的な実年齢とは別に人間の適例期間を増加させている感じがしている。
適例期間とは、恋愛だけでなくあらゆることにおいて子供や老人と扱われない期間。
人生を主体的に楽しめる期間。
もちろん、子供や老人が人生を主体的に楽しめないという意味ではない。
ただ、「子供らしく」とか、「年寄りなりに」とかいった修辞を必要としない期間のことである。

かつては、容姿は努力しても年齢なりには劣化していったし、背伸びしても一部の人を除けば小学生が大人を振る舞うことは容易ではなかった。
それは、ファッションもあり、経済力もあり、そして情報が広く行き渡っていなかったこともあるだろう。

しかし、現代においては素養も必要ではあるものの、努力とスキルによって年齢が大きな問題とはならなくなってきた。それは、年相応という言葉が大きな意味を持ちがたくなってきたことにも関係するかもしれない。
過去の伝統的な年相応は、現代にはフィットしない。しない人が多くなっている。

それは、人間のエイジレス化。
別にだからといって、恋愛のエイジレス化が今急速に進展しているというつもりもない。
最初にも書いたようにファザコンの女性も過去からいただろうし、若い嫁を取るのが今の特徴というわけでもない。

ただ、民主社会が始まって人々の平等性が高まったとき、おそらく恋愛も相応な相手を選ぶ傾向が高まっていたような気がする。それ以前は、個人の意思ではなく社会的要因によりそのばらつきがあっただろうが、近年のエイジレス化とは傾向が異なるように思えている。
近年のそれは、個人の意思により相応な相手の選択範囲が広がっているのではないだろうか?

今でも確かに世間体や常識というものは人々の間に大きく広がっているため、そのエイジレス化は大きく普及しているわけではない。
ただ、その世間体や常識のくびきが外されたとき、意外と私達が思う以上にその自由化は進展しているのではないだろうか?

年相応という言葉は、徐々に死語になっていくのかもしれない。

「生物学的機能と社会的機能の乖離は、人間という種を停滞させている原因かもしれない。」