Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

リーダーとは

リーダーとは、基本的にまず組織があってそれを統率する人のことである。
細かく言えばきりがないだろうが、おおざっぱに言えばリーダーのタイプには2つある。

一つは、自らが率先して突き進んで、組織を引っ張っていくタイプ。
企業などでは創業者や、中興の祖などにこのタイプが多い。
ある意味では独裁的で、わがままである。
しかし、同時にそれを組織に許容させるカリスマも備えている。

もう一つは、組織内の意見を調整しながら全体を引っ張っていくタイプである。
これは、企業で言えば成長が安定期にさしかかった時に能力を発揮する。
バランス型と言っても良い。
企業活動が安定しているからこそ、組織内の調和を重視したスタイルと言えるだろう。

この両者のリーダー、どちらがよいか?
それは、リーダーが必要とされる時期に応じて異なる。
波乱の時期には強いリーダーシップが必要だし、安定期にはそれは逆に組織の不和を呼ぶ。

大きな分類としてはこの2つとなるのだが、そこにもう一つ別の要素を付け加えてみたい。
それは人間としての徳。
リーダーたるもの、組織のメンバーに信用されなければならないのは、どちらのタイプであっても同じである。それがなければ、通常はリーダーに担ぎ上げられることはないのだが、それでも組織の人間関係などによってそれが不足する人間がトップに祭り上げられることもないわけではない。
徳は、本来人間に備わっているものではあるが、それは行動により示される。
その徳が不足すれば、人々は離れていき、やがては敵に変わるだろう。

すなわち、リーダーの資質としては
1)リーダーとしてのタイプ
2)リーダーとしての人間的資質
この二つの条件が問題となる。

ただ、この両者は先天的な能力ではあるが、ある程度までは後天的にも獲得できる。
その状態を、ポストが人を育てるという。
そのポストに誠実であろうとすることが、結果的に個人の資質をそれ向けに替えていくと言うことであろう。

ポストにおける誠実さとは、その組織にとって何が最も最適化を考え行動していくことであると考える。だから、組織が異なればその行動形式はおそらく変化せざるを得ない。


リーダーの類型についておおざっぱに考えたところで、現総理である菅直人氏について思索を広げてみる。

まず現状の国の状況は平時であるか、あるいは緊急時であるか?
おそらく大部分の人は緊急時だと答えるだろう。
今を平時と言い切れる人はそう多くでないことはほぼ間違いない。
それは、震災対応、原発対応、世界的な経済情勢、領土を巡る思惑など、、、問題は枚挙にいとまがないからに他ならない。

未だに、小泉元総理の名前が挙がるのは、彼がその能力はともかくとして緊急時のリーダーとしての資質を有していたことを意味するのだと思う。

翻って、菅総理は緊急時のリーダーとしての資質を有しているか?
人によって意見は異なるかもしれないが、私は有していないと考える。
別にそれは菅総理に限らない。自民党の谷垣総裁も緊急時におけるリーダーとしては能力不足であろう。
それでも、彼は任期中にこの震災を迎えてしまった。
だからこそ、ポストによって育たなければならなかった。
総理を容易に変更できない以上、彼の変化を期待するしかなかったのである。

残念ながら、その期待は裏切られてしまった。
彼は変われなかった。それどころか、かえって依怙地になってしまった。
なぜそうなったのか?
その理由は挙げればきりがない。
まず、根本的なリーダーとしての徳の不足。
人を率いてきたことがない。その経験のなさだけでなく、おそらく性格的なものであろうが、組織全体を引き上げる考えが根本的にないのだと思う。
小政党のトップにいたときにはそれでも、自らのために自らがアグレッシブに動くことも、結果的には組織を注目させて、その目的はある程度発揮されたかもしれない。

しかし大政党のトップとなり、さらには日本という国のトップになったとき、その全体を如何に良くするかに自己の能力を捧げなければならなかったのだが、彼は変わっていなかった。
小政党の時と同じように、自らの価値を高めれば組織全体が自然に高まっていくという認識のままなのである。
残念なことではあるが、ポストは彼を育てはしなかったのだ。

だから、彼の行動は自らの価値を高めるためにしかなされない。
それが、現在でも全体に波及すると考えているのかどうかは窺い知れないが、その考えを有している以上彼が目指すのは、自分自身が有名になり歴史的価値を有することしかない。
・・・・それが結果として、組織を向上させると信じているのだから。

そうでなければ、これだけの混乱を引き起こせば自らの責任を痛感するはずである。
それを無視し続けられるのは、それがマイナスだとは考えていないために他ならない。

彼は自らの信念に従って今も行動している。
しかし、それは民主党にとっても日本という国にとっても、容認できるものではない。
言葉の上での国民の幸せは同じであったとしても、その思い描く姿は全く異なるかもしれないし、そこに至る過程はおそらく信じられないほど違っているであろう。

彼は、厚顔無恥で鈍いのではない。
彼の信じる道が、今の状況なのだ。
だから、自らに反するものは全て抵抗勢力であって、自らに課せられた試練なのであろう。
そう思えるのは、今進んでいる道が自ら思い描くものと根本的には違っていないから。

私は、菅総理が就任する前からSNSの日記で彼は鳩山総理以下だろうと言ってきた。
もちろん、事務的能力は鳩山総理よりも高い。
しかし、彼が思い描く将来の姿が全く見えなかった。

リーダーがすべきことは2つである。
一つは明確な目標を立てること。
そして、もう一つはその目標が実現できることを組織のメンバーに理解させること。

まず、菅総理には大きな目標など何もなかった。
だから、今唐突に様々な目標が付け焼き刃に提示されている。
そして、唐突に用意したそれなのだから、もちろん実現の道筋など立てようもない。

ただ、機を読む能力だけはあるようだ。
夢のような実現の道筋を見いだせない目標であっても、一定の人の関心は惹きつけた。
でもその先に進む道はない。
新たな、目標を目くらましのように挙げ続けるしかない。

私は思う。
彼は、平時のリーダーとしてはまだもう少し働けたかもしれない。
しかし、緊急時のリーダーとしては全く不適であった。

それは、彼にカリスマを醸させるほどの政治的信念がなかったこと。
立てた目標を実現できると信じさせるだけの案も持っていない。
だから、いくら思い切ったことをしても人はついてこない。

緊急時には、緊急時のリーダーを立てるべきである。
少なくとも、それは菅総理ではないだろう。

「ポストに忠実であれば、高いポストは人を育てる。育たないとすれば、実はポストを軽んじているのだ。」